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復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

かつて、沖縄の島々にはそれぞれの地域の言葉=しまくとぅばが、生活の中に溢れていました。しかし今は、なにもしなければ無くなってしてしまう「消滅危機言語」となっています。

なぜ話す人が減っているのか。復帰の時代に焦点をあてて考えます。

講師 久手堅豊さん「訳:これは何ページになっていますか、3ページですね。3ページを開けてください」

しまくとぅばの授業が行われているのは高齢者へ学びの機会を提供し地域活動の担い手を育成している、かりゆし長寿大学校。

講師 久手堅さん「うきみそーちーさい」「訳:生まれたところはどこですか?」「訳:長堂です。豊見城です。」

受講生は全員60歳以上。しまくとぅばを聞けて、話せる世代です。

受講生「公民館に遊びに行って、はいたい、ぐすーよー、ちゃーびらたいって、公民館の子ども達に少し教えています」「(言葉を)大切にしないといけないよ」

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

受講生たちの青春時代、およそ50年前は、本土復帰を望む声が高まり、しまくとぅばはやめて共通語を話そうという教育が行われていました。

受講生「共通語使った時には、よく共通語を使いましたということでリボンがあったんですよ。ピンクとか黄色とか、リボンをつけて。」

ペラペラ参加者「訳:中学校時代は何もしゃべらない。やまとぅぐちで表現できなかった。ずっとうちなーぐちを使っていたので。」

本土復帰前、しまくとぅばが禁じられた時代を見つめます。

講師 久手堅豊さん「うちなーぐちを封印してしまった我々世代。ふぁーふじ世代。この封印を解いて子や孫たちに語りかけて残そうと」

島の人々の生活に根付き、育まれてきた沖縄の言葉。流ちょうに話せる人は少なくなり2009年、ユネスコから「消滅危機言語」として認定されました。

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

80代「内科の医者だけどほとんど外来では方言。高齢者が使わなくなってきて、自分もだんだん使わなくなった」

30代「おじいちゃんおばあちゃんが話すのはあんまり分からない」

40代「聞くことは。こんなこと言っているなというのは分かる」子ども「わかんない」

今年、県が行った意識調査ではしまくとぅばを「主に使う」「共通語と同じくらい使う」「挨拶程度使う」と答えた人は、去年より14ポイント以上減少し、全体のおよそ30%。

「よくわかる」「ある程度わかる」と回答したのも去年を15ポイントほど下回り「過去最低」の値となりました。

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

長い歴史を積み重ねてきた私たちの言葉。なぜ、消滅の危機と言われるまでになってしまったのでしょうか。

しまくとぅば普及センター狩俣繁久センター長「(明治以前は)日本語の方言差は大きい。言葉を相互に通じるようにしないといけないというのが一つですね」

始まりは明治時代。幕藩体制が終わり、人の移動が自由になったことがきっかけだと地域の言葉を未来へつなぐしまくとぅば普及センターの狩俣センター長は話します。

狩俣先生「自然に通じる言葉で話さざるを得なくなったという社会に変化したことと」「(全国で)学校教育を始めたら、標準語みたいな言葉でやらざるを得ない。」

沖縄が日本に統治されるようになり言語の統一が必要になったことから進められたのが教育現場での「標準語励行政策」です。戦前、戦後と続き、本土復帰を望む声が高まるとともに共通語を話そうという風潮もさらに熱を帯びていきました。

しまくとぅば普及センター 狩俣繁久センター長「大きな黒板に上下に分けるように横に線を引いて、上に正しい言葉、下に間違った言葉っていうので上が標準語で下が方言っていう授業をやったような記憶ありますね。」

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

(1950年代から)学校では徹底的にしまくとぅばが禁じられました。少しでも話すと、方言札を首から下げさせ、厳しい罰を与えることもありました。

「竹ぼうきの柄がバラバラになるまでおしりを叩かれることもありました。」「みんな、だんだん無口になっていきました」(引用:発言・沖縄の戦後五〇年 髙良勉)

狩俣センター長は方言札が人々に与えたストレスは大きいとしながらしまくとぅばを衰退させた決定的な原因ではないと考えています。「日本に行きたい。 向こうから来た人と仕事をしたい(という思いで)」「沖縄県民の圧倒的な多数が自ら日本語を学んだんじゃないかと思います。」「ただし、もしタラレバがあるとしたら、バイリンガル教育をしなかったこと」

実は、終戦直後、東京の沖縄人連盟のもとへアメリカ軍の最高司令部GHQが尋ね、沖縄の教育現場で使う「言葉」についてこう話しました。「沖縄の言葉で教育を行うべきではないか」(引用:比嘉春潮全集 第三巻)ところが、教育関係者の間では共通語での教育がよいと考える人が大多数で、「教育言語を標準語とする」方針が決定されたのです。

その時代、教員たちは子どもたちに絶えずこう叱責していました。「復帰せんといかん」「日本にどうせいくんだから日本語を使えんといかん。」「日本語を使えないで帰ったら恥だ」。(引用:発言・沖縄の戦後五〇年 髙良勉)

狩俣先生「私は社会の必然じゃないかなと思う。」「(子ども達に)どこに行っても通用できる力を身に付けさせたいと思ってたんじゃないですか。」

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

移り変わる社会の中で、ないがしろにされ窮地に立たされている島の言葉。今、その価値を見つめ直し学び、広げようとする動きも大きくなっています。

かりゆし長寿大学校 講師 久手堅豊さん「子どもや孫たちには使っていなかったんですよ。これはとても反省。でも今からでも遅くないですよ」

かりゆし長寿大学校の地域文化学科では例年、子どもたちと触れ合う活動をしています。地域の歴史や文化を若い世代に伝えられるようしまくとぅばの授業を取り入れました。

男性参加者「(しまくとぅばを)最近から30代になる娘が聞いてくる。どういう意味なの?と」「できるだけ伝えていこうと思う」「沖縄のアイデンティティというのかな。ちむぐくるが表現できる言葉だと思うんですよね。」

講師 久手堅豊さん「(昔は)しまくとぅば無くなってもなんともないのにってチラッと思いもした。だけど、うちなーぐちがなくなるんだよと。まさかやーと。周囲を見渡すとうちなーぐち使う人いないわけ。うらんばーよ。」

10年以上しまくとぅばを伝える活動に取り組む講師の久手堅さんは、完璧でなくても自分の知っている言葉を若い世代の耳に残すことが重要だと感じています。

「はい、学校行ってきなさい!それでいいわけ。そうすると、子や孫たちがおじいさんはそう言っていたなと残るんですよ、心に」

本土へ復帰しても、沖縄で育まれ受け継がれてきたちむぐくるは変わらない。

人々が生きてきた証はしまくとぅばにこそ宿っています。

復帰50の物語第28話 禁じられた しまくとぅば

「うちなーぐちで産まれてうちなーぐちで育ってきた我々は、うちなーぐちが無くなると、この沖縄に生まれたという証も、我々の祖先がうちなーぐちを使っていたというその証まで全部消えてしまうのかと。35恐怖を感じた37それを思うと、無くしてはならん。」