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先週の5月15日で、沖縄が日本に復帰してから49年を迎えました。来年、復帰50年という大きな節目に合わせて、本島最北端の国頭村と鹿児島県最南端の与論町が協力して「海上集会」や「かがり火」など、当時の復帰運動を再現するため、動き始めています。そこで見えてきたのは、国頭村と与論の「親子」とも言える関係でした。

北緯27度線から見る本土復帰

与論町・山 元宗町長「とにかく沖縄の、特にやんばるのおかげさまで、家を作るときの柱は全部向こうから持ってきたというふうな話を聞いたり、与論としては『親の島』だという意識があったと聞いています」

沖縄を「親の島」だと教えられ育ったと話すのは、与論町の山元宗町長です。

40周年復帰事業実行委員長・麓 才良さん「身近な親子、切っても切れない身近な島だという思いがずっと受け継がれてきているんだと思います」

9年前に国頭村と与論の復帰40周年事業で、実行委員長を務めた麓才良さん。

沖縄と与論には、古くは琉球王国時代から続く交流の歴史があったとされ、沖縄からは様々な資材や食料などが運ばれ、与論にとっての沖縄は、まさに親のような存在だったというのです。しかし、その一方で、戦後の沖縄は、すぐには行けない島だったと言います。

麓さん「終戦後の生まれですから。外国の沖縄しか実感がないから。近くに見えるけれども、すぐ行けない島」

与論町・山町長「僕が中学、高校で鹿児島に行ったんですよ。その時に同じ黒潮丸に乗ってくる人たちが、僕らは上の2階の方で、沖縄から来る人たちは下の方にいて、仕切りがあるんですよ。それを見た時には本当に辛いと思いました」

北緯27度線から見る本土復帰

復帰前の沖縄がアメリカの施政権下だった頃、船の中でさえ国境があり、パスポートが必要でした。本島最北端の国頭と鹿児島最南端の与論の間には、北緯27度線が日本とアメリカを隔てる国境となっていたのです。

また、復帰運動が盛んだった当時のことを話すのは、復帰40周年事業を担当し、現在、与論町で副町長を務める久留満博さん。

与論町・久留満博副町長「小学校低学年の時に僕は(かがり火の現場に)行ったことあるんですよ。その時に皆さんが、本当に肩を組んで(沖縄を返せの歌を)やっていた」

そして9年前、復帰40周年を迎えるにあたって、数十年ぶりに「海上集会」を再現しようと動き始めたのでした。

久留副町長「国頭村の当時の企画商工観光課の知花さんと話をして『洋上集会(海上集会)』というものを計画してみようかと」

その当時の担当者というのが、現在の国頭村村長・知花靖さんでした。

国頭村・知花靖村長「(復帰40周年事業は)お互いがお互いで実行委員会を立ち上げて、再現しましょうと言うことで、いろんな方の協力を得ながらそれ(海上集会)を実現することができました」

復帰前の1963年から1969年にかけて、沖縄では屈辱の日とも呼ぶようになったサンフランシスコ平和条約が発効された4月28日に合わせ、沖縄と与論、双方から船を出し、当時、国境だった北緯27度線という海の上で集会を開き、沖縄の早期復帰を訴える運動が続けられていました。

40年以上の時を超えて、再現された「海上集会」、そこには、こんなエピソードもありました。

北緯27度線から見る本土復帰

麓さん「合流場所で、先に国頭の方々が待っておられて、沖縄を返せの歌がバンバン聞こえてくるわけです。近づくと、だんだんその声が大きくなって。そのときに、定期航路のあかつき丸が、ぐるーっとこうきて、遠巻きにして汽笛をぼーっとならしながら。その汽笛の音がなんとも言えなかった。あれによって私たちは一気にあの当時にタイムスリップしたような感じになりました」

今、復帰50周年にむけて、国頭村と与論町が再び動き始めています。

国頭村・知花村長「現在職員の人事交流もやっていまして、来年は復帰50周年という、まさに大きな節目なので、ぜひまた50周年も一緒に協力しながらやっていきましょうと」

国頭村と与論町は人事交流という形で現在、それぞれの職員を派遣しているのです。

北緯27度線から見る本土復帰

国頭村から来た渡慶次勇樹さん「(Q:与論に初めてきた時の印象は?)地元(国頭村)にいる感じがだいぶ強かったイメージですね。方言をしゃべる方がよくいらっしゃるんですけど、イントネーションも沖縄県の北部に近いのかなというのが第一印象です」

北緯27度線から見る本土復帰

与論町から来た加藤翔さん「(Q:国頭村への出向を希望した理由は?)大学は沖縄の大学に来て、沖縄を身近に感じている部分があったのと、昔から与論と国頭村とで定期的に交流をしてつながりがあったので」

今は県境となった北緯27度線を超えて、交流を深める国頭村と与論町。来年の復帰50週年にという大きな節目の年に向けて、益々交流を深めています。

加藤さん「これから先、60周年、70周年つないでいけるように、精一杯尽力していきたいと思っています」

渡慶次さん「当時、ここで(海上集会が)行われたというのは感慨深いと言いますか、与論のメンバーと一緒に(復帰50周年事業)をやりたい」

北緯27度線から見る本土復帰

国頭村・知花村長「これまでの50年という長い歴史、それをしっかりとと若い人たちにも受け継ぎながら、恒久平和を願う、そして与論との交流をもっともっと深めていきましょうと」

与論町・山町長「沖縄との交流というのは、我々の時代になって、本当にもっと交流を深めていかなきゃならんと思うわけですから。我々の子や孫たちにそういうふうなことをやって、お互いに交流し合っていくんだよというのを見せたい」

復帰前は国境、復帰後は県境となった北緯27度線という見えない境界線。今、その隔たりを超えてつむいできた歴史が次の世代へ引き継がれていきます。

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