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シリーズ非戦の誓いです。県内には、戦前戦中に土地を奪われ、消えてしまった集落が存在します。かつて那覇空港の場所にあった「大嶺集落」。そこを見つめると、沖縄が歩んできた苦難の道が見えてきました。

金城さん「感無量だと言う方が。言う言葉もあまりないですよ」

感慨深く話す男性。視線の先にあるのは、地域のコミュニティセンターとして8月に開館予定の【ともかぜ振興会館】です。この施設にはある地域の人たちの思いが込められていました。 

金城さん「そこの先人たちの生きざまを誇りに思い次世代型の人たちに伝えられる。」「大嶺となくなった集落にあるけれども、生き生きとした集落の物語をここでが聞かせますと。」

シリーズ非戦の誓い 消えた大嶺集落の歴史伝えたい

こう話すのは、旧那覇飛行場用地問題解決地主会の、金城栄一(きんじょう・えいいち)会長です。ともかぜ振興会館は戦前、日本軍に土地を強制接収された大嶺集落への補償として計画されています。

現在の那覇空港の場所にあった大嶺集落。漁業や農業をしながらおよそ350世帯1500人以上が暮していました。しかし1943年、戦争が近づくと日本軍が飛行場建設のために集落の土地の半分を強制的に接収。そこに暮らす人々は、ふるさとを追われることになったのです。

金城さん「古里がないということは木で言えば根っこがないという意味なんですよ。根っこがないということで浮き草ですよ。」「大嶺がどこにあるかも私たちの子どもたちですら孫たちですらわからないんですよ。」

あれから77年経った今も奪われた土地は返って来ていません。戦前に日本軍によって強制接収された土地の多くが、戦後の混乱期にそのまま国有地にされてしまったのです。

金城さん「そのまま国有地という扱いにしちゃったわけですよ。それはおかしいでしょということで。」「自分たちは土地代を取った覚えもないし無理やりに戦争に協力という形で宅地も畑も提供したんであって」

土地がかえってこなかった背景にも、沖縄が経た歴史がありました。

戦争が終わると本土では、接収された土地の返還が進められました。しかし、祖国から切り離され27年間アメリカの占領下におかれた沖縄では日本軍に奪われた土地の多くが住民たちのもとに返される機会を失ってしまったのです。

金城さん「全国で243カ所あります。強制的にやった(接収した)土地というのは。それでも、終戦直後、わずかの期間で前の地主に全部返している。」

シリーズ非戦の誓い 消えた大嶺集落の歴史伝えたい

1995年、金城さんは旧那覇飛行場用地問題解決地主会を立ち上げ、忘れられた旧大嶺集落の歴史を伝えるための拠点となる施設の建設を国に求めたのです。

しかし

金城さん「戦後処理するのに、(国は)8割しかやらないんですか、1割は県がみなさい、1割は各市町村、要するに那覇市がみなさい。こんなことでOKしたこと自体おかしくないですか、戦後処理というのは。国が全部やって、初めて戦後処理であって」

金城さんたちが声をあげてから16年、施設の建設は決まったものの建設費用の負担をめぐり国と那覇市、地主会側で意見が対立したのです。

金城さん「振興法で解決するとなると時限立法ですから、私もギリギリまで頑張りましたけれども、県もやる気がないし国ももう時間切れますよ。こういう冷たいあしらいだったので、私はギリギリの線で分かりましたと。」

土地を奪われた住民たちへの補償問題は、戦後75年にしてともかぜ振興会館の完成という形で決着しました。

金城さん「感無量だと言う方が。言う言葉もあまりないですよ。これからだと。さあこれからどうやって私たちは歴史を伝えていき、負の遺産だったものを希望の財産にしたいなと。」施設を通して大嶺の匂いを感じてほしい。そんな思いのこもった場所があります。

金城さん「みんながサンゴをはめてくれました。」

施設の庭には大嶺地域にゆかりのある人たちが、大嶺海岸から拾ってきたサンゴが埋め込まれているのです。会館の完成を嬉しそうに話す金城さんですが、ここからがスタートだと話します。

シリーズ非戦の誓い 消えた大嶺集落の歴史伝えたい

金城さん「私たちはこれをこの会館をどう生かして、どう使って歴史を故郷が、かの地にあったということを伝えきれるかが、先人先輩たちに対する感謝の気持ちじゃないのかなと。」

消えてしまった古里があったことを後世にも伝えたい。大嶺集落の先人たちの生きた証を感じてほしい。 地域の人たちの想いが詰まったともかぜ振興会館は、8月に開館予定です。