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シリーズ「語り継ぐ沖縄戦」きょうが最終回です。67年前の5月、わずか一週間の戦闘によって日米合わせて5000人が亡くなったともいわれる、最も激しい那覇での攻防戦がありました。シュガーローフとアメリカ側が呼んだ新都心にある小高い丘。その場所の記憶を後世に伝えようと、俳句に留めた人たちの思いを紹介します。

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「シュガーローフの戦い」。「砂糖の塊」と名づけられた、標高わずか52メートルのその小さな丘は、首里の司令部を背後にひかえた重要な防衛拠点でした。

熾烈な攻防戦で、アメリカ軍からは戦闘の悲惨さゆえに精神症を患う兵士や死者が続出。対する日本軍もおびただしい数の死者をだし、1週後に壊滅。シュガーローフの敗北で首里の司令部は南下を決意し、一般住民を巻き込んだ「持久戦」へ突入していきました。

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シュガーローフは現在の那覇市、新都心にあたります。巨大な貯水池となったそこに、当時の激戦の面影はほとんど残っていません。

戦後67年がたち、風化が進むシュガーローフを、俳句で伝え残そうとする人がいます。具志堅青鳥さんです。

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那覇で生まれた具志堅さん。15年前、貯水池の建設をきっかけに切り崩されるシュガーローフの歴史を調べ歩き始めました。現場で感じたことを、趣味の俳句にしたためます。

「死者の声 聞かんと野に入る 沖縄忌」

具志堅青鳥さん「いくさで亡くなった軍人や住民、子どもたち。この人たちが何を言いたかったのかということは、その現場を歩いたり、野原にはいったりしないとわからん」

具志堅さんの元に、県俳句協会から夏の吟行会の知らせが届きました。今年のテーマは、シュガーローフ。近い将来、戦争体験者がいなくなる時代を生きる人のために「戦争の語り部となる俳句を生みたい」と、具志堅さんは案内人を勤めることにしました。

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今月17日の朝、新都心に会員48人が集まりました。ヒル・ワンと呼ばれた高地1。現在は小さな茂みのようになっています。以前、具志堅さんはこの場所で多くの遺留品を見つけました。

具志堅さん「小銃弾と手榴弾です」

木々をかき分け、10メートルほど斜面を登った先に、当時日本軍が身を潜めたと言われる壕がぽっかりと口をあけていました。

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『シュガーローフは割れない胡桃のようだった』激烈なこの戦闘を、当時のアメリカ軍の参謀はそう振り返りました。一週間の戦闘で、日米両軍のおびただしい血がこの場所にながれました。

シュガーローフにたどり着きました。この日、梅雨の合間に晴れ渡った空の下に、当時司令部のあった首里城が見えました。

具志堅さん「向こうに首里城がみえる。そこの司令官を目の前にしての戦だから(日本軍は)おにぎり2つで死ぬ物狂いで戦った気持ちわかりますね」

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具志堅さんはこの日、ある人を招きました。中村功さん。中村さんの姉は救護班として、兄は義勇隊員としてシュガーロ―フで戦闘を経験しました。数少ない、シュガーローフの証言を、弟として語り継いでいます。

中村功さん「(兄は)もう太刀打ちできないと。武器が全然違うと。まず食料がない。非常に悲惨だったと言っていた。兄弟はめったいに話さない。うちの姉はがたがた震えます、熱発する。67年たったいまでも傷を負って、手足がだらっとした顔がうかぶ、見えるみたい」

具志堅さんは、一輪の月桃の花を供えました。6月は月桃の花の季節。「当時、シュガーローフの野には月桃が咲いていたかもしれない」そう気づいた時から、買った花束を供えるのはやめました。

会員の人たちは、心に浮かんだ俳句を手記に書き留め始めました。

「白南風や 修羅をかくして 新都心」
「鎮魂に 敵味方なし 花月桃」

この日の選考会には144の俳句が寄せられました。2時間におよぶ選考の末、最高賞の天賞が決定しました。

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「いくさ径 辿る傘杖 草いきれ」

草木を掻き分けて上ったヒル・ワンからの情景に、当時壕に身を隠した兵隊の息苦しさと、むせかえる草の匂いを表現しました。

入賞者「壕を見たときに、こんな狭いところに這うようにして、命からがら隠れた。これはまさしく辛い状態をみた、という気がして」

参加者がシュガーローフを去った後、具志堅さんはひとり、俳句をしたためていました。

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「陣地跡 オオゴマダラの つがい飛ぶ」

具志堅さん「僕らは70上り坂だし、あと5年,10年そういうのができるか、またこういう俳句にしたり、絵にかいたりできるかと思うと、早く誰かに伝えたいと思う」

殺戮の場、シュガーローフ。いま大都市に発展した那覇の街並みが見渡せます。

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戦前、地元の人々はこの丘を「ケラマチージ」と呼んでいました。「慶良間の見える丘」というその名の通り、ここからは輝く青い海に浮かぶ、島々が見渡せたといいます。戦後67年を経た今でも、一帯からは人骨が見つかっています。