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八重山の人々を乗せた疎開船が7月に襲撃され尖閣に漂着した生存者は8月末まで苦難の日々を過ごしていました。

空襲が激しくなった6月末、疎開者を乗せた2隻の疎開船が、石垣島から台湾に向けて出航しました。7月3日には台湾の基隆に着く予定でした。ところがその日、アメリカ軍機が飛来し、機銃で攻撃。2隻のうち1隻は炎上して沈没。

40数人が死亡し、漂流した人々はもう1隻に救助されました。しかし、その船も機関故障を抱えており、尖閣諸島の魚釣島に漂着しました。そこから8月末までの長い漂着の生活が始まったのです。

食料は底をつき、野草を食べて命をつなぎましたが、栄養失調で亡くなる人が相次ぎました。このため人々は石垣島に救助を求めるため難破船の板で小舟を作り、乗り込んだ8人はアメリカ軍機の機銃掃射をかいくぐって石垣島に到着。8月末、救助船3隻が尖閣諸島に向かい、生存者の救助に当たりました。