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太平洋戦争中の1944年10月10日アメリカ軍による大規模爆撃を受けた沖縄。およそ1500人が死傷した「10・10空襲」から、あすで82年です。

年々、戦争体験者が少なくなるなか、当時14歳だった女性が今回、自身の体験をカメラに語りました。

片岡千代さん「10月の空襲は振り返ってみたら、どこがどこやら、わからない、みんな焼野原で家がどこにあったのかわからなかった」

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶 「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

自身の体験を語るのは、ことし95歳の片岡千代(かたおか・ちよ)さんです。

どんなおばあちゃん? 孫「明るい」

片岡さん「お孫さんが片岡さんといて楽しいっていってますけどどうですか?」「おしゃべり好き」

那覇市で暮らしている片岡さん。たくさんの家族に恵まれ、ユンタク(おしゃべり)が大好き。家族のなかでも、通っているデイサービスでもムードメーカーです。ただ、82年前の出来事を語るとき、片岡さんの表情は曇ります。

片岡さん「思い出すのも嫌だった」

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

1944年10月10日。アメリカ軍は早朝6時40分からおよそ9時間にわたり、県内全域へ空襲を行いました。この攻撃で668人が死亡、768人が負傷し、集中的に狙われた当時の那覇市は市街地の9割が焼失しました。

片岡さん「飛行機(の操縦士)がこっちを見ているから、私、撃たれるかなって伏せていて、撃たないで崇元寺に(爆弾が)落ちた」

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

片岡さん「もう見るのもびっくりする、どこにお家があったのかわからないくらい(街が)火の海になっているわけ」

当時14歳で那覇市久茂地に住んでいた片岡さん、日本軍の陣地構築作業に向かう途中で、空襲を知らせるサイレンを聞き、幼い弟妹や母とともに古島へ避難しようとしました。しかし、途中で家族とはぐれてしまいます。一人で家族を探すなか、避難壕の近くに爆弾が落ち、周囲はけがをした人で溢れていました。

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

片岡さん「もう生きた心地がしませんよ」「不安が募って大変だった。(県外に疎開した)弟と二人きりになるのかと思って心細かった」

絶望的な状況のなか、片岡さんは奇跡的に家族と再会を果たします。

片岡さん「墓のところで偶然に父に会って、何とも言えませんでしたね。あの時は、(父と母と)家族3人抱き合って泣いたよ」

なぜ「10・10空襲」は行われたのか。「沖縄への空襲で、日本軍の基地に最大のダメージを与える」アメリカ軍の報告書には、当時控えていたフィリピン上陸作戦に備え、日本軍の基地や港がある沖縄を標的にしたと記されています。

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

空襲から82年。昨今の自衛隊配備や増強の動きを耳にするたび、片岡さんは当時の記憶がよみがえり、不安を募らせています。

片岡さん「与那国とかね、あっちにいろんな自衛隊が来るでしょう、準備しているのかと思うくらい、自衛隊が来たら、またいろんな武器があっちに配置されるさ、それ見ていや、また(沖縄が)犠牲になると思う、いや」

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

今月3日、那覇市で「10・10空襲」や沖縄戦の犠牲者を悼む追悼式が行われました。

宣言 地域の学生たち「戦争を捨てて世界に愛と平和を、この願いかなうまで私たちは歩み続けることをやめないだろう」

「生きた心地がしなかった」10・10空襲 孫に囲まれる95歳が伝える戦争の記憶

体験者や遺族が花を手向け、二度と惨劇を繰り返さないよう祈りを捧げます。

片岡さん「もう平和で戦争というものがなくなって、みんなが幸せに暮らすならそれに越したことはないよ、戦争というのはやめて、お互いに犠牲が出るんだから」

「二度と犠牲を出さないでほしい」。体験者の切なる思いと誓いは、静かに、そして確実に次の世代へと手渡されています。

片岡さんは、これまでご家族にも自身の体験を詳しく話してきませんでした。しかし、「次の世代に同じ思いを絶対にさせたくない」と、去年から体験を語り始めています。82年が経った今もなお残る戦争の傷痕。二度と悲劇を繰り返さないために何ができるのか、私たちは考え続ける必要があります。