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太平洋戦争の前、アメリカの植民地だったフィリピンには日本から海を渡って移り住んだ人が3万人いましたが戦争によって家族が引き裂かれたという歴史があります。フィリピンに取り残された残留日本人2世の多くは無国籍状態でこのうち親が沖縄出身だという人は425人います。

遠く離れた地から父のふるさとを思い続けてきたある男性が、”親族を捜したい”とあす沖縄を訪れます。その願いを実現しようと情報集めに奔走する人たちがいました。

島袋恵子さん「これをきれいに書いているんです。父親は。そのなかに長男・勲のこども、初ってあるんです。これは“初子”なのか“初”なのかわからないんだけど」

家系図などを広げて、家族の歴史をたどる人たち。うるま市平安座島に集まったのは、“赤比地”という姓にルーツのある人たちです。ある残留日本人2世の願いを実現しようと、一族をあげて親類捜しの調査を進めていました。

フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣典弘さん「サムエルさんの願いは、沖縄に来てみなさんにお目にかかること、もう一つは日本国籍を取得したいと」

特集・フィリピン残留日本人2世 親族を捜す

アカヒチ・サムエルさん「私はサムエル オルミド アカヒチ、1942年8月15日生まれ、81歳です。日本の沖縄に行って父の親せきに会いたいです」

日本人の父とフィリピン人の母を持つアカヒチ・サムエルさん81歳。沖縄出身の父は漁師として家計を支えていましたが、太平洋戦争が激しくなり、フィリピンゲリラに殺害されました。生まれて間もなかったというサムエルさんは、父の顔を覚えていません。

戦前、フィリピンには多くの日本人が移り住み、麻の栽培に携わっていました。最盛期には3万人を超える日本人が暮らし、その半数以上が沖縄出身者だったと言われています。しかし、太平洋戦争の勃発によりフィリピンでは戦前に移住した日本人は旧日本軍の協力者とみなされて迫害の対象に。戦後、反日感情にさらされた残留日本人2世は、身を守るため身元を示す書類を廃棄したケースが多く、サムエルさんもその一人です。

さらに、当時のフィリピンでは子どもは父親の国籍に属すると法律で定められていたため、国籍がないままに。フィリピン社会で息を潜めるように生きてきたのです。

残留日本人2世の国籍回復を支援するNPO法人が調査したところ、「アカヒチ」という名字はうるま市の平安座島に多いことがわかりました。この日集まったのは、「赤比地」姓にゆかりのある人たちです。家系図や戸籍謄本などを持ち寄り、あらゆる情報を丁寧に辿っていくとサムエルさんの父親と思われる、ある男性の名前が見つかりました。

赤比地にゆかりある玉栄章宏さん「政徳さんが1925年渡ってるんです。その3年後に勲さんが渡っている」

1928年に平安座からフィリピンに渡った「赤比地勲」さんです。11人の兄弟の長男だった勲さん。その勲さんの姪にあたる島袋さんは、生前、父親から叔父がフィリピンで妻子をもうけたという話を聞いていたといいます。

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勲んさんの姪・島袋恵子さん「おじさんがフィリピンにいること、子どもたちが3名ぐらいいるよという話」「(父は)気にはしてましたよ。だから会いに行きたいねとか、なんで来ないのかねと。最近、20年ぐらい前までは言ってましたよ」

なんとか糸口を手繰り寄せようと持ち寄った家系図や写真などの分析が続きます。そのなかから、勲さんを証明する有力な手掛かりが見つかりました。

勲さんの甥・吉村文男さん「これが勲さんで、これが勲さんの親父ですよ、やすのぶさんです。要するに たろうですよ。これがお母さんですよ。奥さん」

1928年ごろに撮影された一枚の家族写真。そこには、勲さんと思われる人物が映っていました。

フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣典弘さん「これは一番のプレゼントだと思います。そういう偶然が重なってここまできているなと、すごい感じています。一番のプレゼントですよ。お父さんのお顔見てないんですもの」

勲さんの甥・文男さん「いいじゃあ、プレゼント。 親兄弟ね、載っている」

さらに、親族の記録や証言を整理していくなかで見つかったものも。

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勲さんの弟・香村安紀さん「位牌に似たものと考えていいと思うんですね。新しい名前で。赤比地は今、なくなってますから。香村勲と香村イリミンテーナという名前で、もう何十年も私は供養を続けております」

赤比地家の先祖の名前などが記されている記録です。勲さんの年の離れた弟あたる安紀さんが大切に守っていました。

フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣典弘さん「これはすごい、家裁への国籍回復の時に資料で。資料撮らせていただいて」

勲さんの弟・香村安紀さん「(勲さん)これに合わせて、これを(イリミンティーナ)を書いたと思うんですけれど」

サムエルさんの母の名前はクレメンティーナ。どこか似ています。

フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣典弘さん「少なくとも勲さんはフィリピンで家庭を持たれていたという証拠です」

戦後80年を経て、親子関係などを示すことにつながる証言や写真の数々。赤比地家がサムエルさんの親族である可能性が高くなりました。

勲さんの弟・香村安紀さん「可能性があるんじゃないかという話になってきましたら。そういう人がいたらフィリピンに親戚ができるわけですから、こんなうれしいことはないですね」

勲さんの姪・島袋恵子さん「よく頑張ってここにお父さんを捜しにきたねとみんなで迎えたいと思います。その時はいとこ集めたいと思いますね」

フィリピン日系人リーガルサポートセンター猪俣典弘さん「この対面が完結するものではないと思っているんです」「我々日本人が残留2世たちから学ぶもの、やはり戦争は絶対繰り返してはいけないという決意をしなければいけないなと。彼らの支援を通して思いますね」

父親とのつながりを求めているフィリピン残留日本人2世のアカヒチ・サムエルさん。父の面影を捜しに、あす、沖縄を訪れます。