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アメリカの占領下で花開いた沖縄ジャズ。その黄金期に活躍したシンガーのひとりが、齋藤悌子さん。旧姓は平良で、宮古島の出身です。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「ラジオから流れたのがきっかけじゃないかと思うけどね」「ジャズが大好きだったから、それから猛特訓ですよね」高校卒業後、およそ10年にわたって、アメリカ軍基地のステージに立ち続けました。

齋藤悌子さんは、現在石垣島に暮らしていて、週末はサークルで、ウクレレ演奏を楽しんでいます。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「もう撮ってるんですか?…気取らなくちゃいけないじゃない、ずっと」

87歳になった今もハリのある伸びやかな声と、3~4時間通しで歌えるスタミナ。プロとして長年ステージに立ち続けてきた風格が漂います。

ウクレレ仲間「二十歳の女の子が4名って表現してます」「八十何歳じゃなくって、二十歳の女の子が4人分のスタミナだって思ってるよね」

ジャズシンガーの道に進んだのは、およそ70年前の1950年代。那覇高校3年生の頃、教師から米軍基地のシンガーのオーディションを受けてみないかと誘われたことがきっかけでした。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「(オーディションは)その時はジャズじゃないの、クラシックを歌ったのよ、私たぶん。グノーのアヴェマリアとか…♪アヴェ・マリア~なんて歌ったってさ本当はそんなことはもうね、あれは通用しないけども。声を聞いて、私がジャズが好きだって言うから、この子は教えればできると思ったんじゃないですか」

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子

当時の沖縄は、急速に米軍基地が建設されていった時代。それに伴い、米軍関係者が音楽や娯楽を楽しむ施設・米軍クラブが増え、本土やフィリピンの演奏家たちが、沖縄に集まりました。悌子さんは、のちの夫となる齋藤勝さん率いるバンドのシンガーに抜擢されました。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「米軍キャンプで何カ月って契約して、今度は将校クラブと今度はNCOクラブとか行って移動して歌うわけですよね」「とにかく数多く歌わなきゃいけない。流行してる曲を歌わなきゃいけないけども、必死で歌詞を覚えましたね」

英語の発音は、米軍機関紙の記者に教えてもらったという悌子さん、基地の中は、一流の音楽にふれながら、ジャズの勉強ができる最高の空間でした。

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「慰問のために有名な人がくるわけね、軍人のためのね。サラボーンとかエラとかね、そういうのが見れたっていうことはラッキーだったな。まず感動したのが休憩時間に廊下歩いてたらね、どっからかすんごいきれいなハーモニーでメロディーが流れてんの。あれどこだろうと思ってずっと音を訪ねていったら、男の人のトイレで4人ぐらい、立ったままオシッコしてコーラスやってるの。ハモってんのね、それがすっごくきれいなの。黒人が。先天的にすごいよね、あの人たちの音楽の感覚はね。すごいなと思ってしばらくトイレの外でこうして聞いてましたけどね、そういう思い出がありますね」

思い出深い曲のひとつが、「ダニーボーイ」です。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「米軍キャンプで行っている時は、よくリクエストが来たのあの曲は。息子がね、戦地行ってたら、それを思って懐かしがる母親の気持ちを歌った曲なのよ。ダニーボーイ、今どうやって生活してるんだろうという内容の曲なのよ」

スタンダードなジャズナンバーにも、戦争の影は重なります。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「サマータイムもそうです。ひとつひとつ私が、米軍キャンプでね、思い出になるということはね、歌ってるとね、ちょうどベトナムの戦争中のことがあったでしょ。兵隊さんがね、涙ながらに踊ってるのはなぜだろうと思って後で聞いたら、明日ベトナム行くと。そういうのを見ると切なくなっちゃってね。もう沖縄だってさあ、ひどい目にあったじゃない、やっぱりあちらの方だって、これから戦争に行って、戦地に行って、あの方だって生きて帰ってきたかどうかわからないよ。行く前にこうして踊ってる姿を目の当たりに見てるじゃないですか。だからもう絶対もう戦争はいけないなとつくづく思いますよね」

10年にわたって、ジャズの本場を知る軍人たちを相手にステージに立ち続ける中で、アメリカに渡ってはどうかとの誘いもありましたが、それを断り、本土復帰を前に、夫・勝さんの故郷である千葉県へ移りました。

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「主人と離れて外国に行くということは考えられなかった。好きなジャズを歌ってるのが一番幸せ。それだけのことなのよ」

50代半ばに石垣島へ移住し、夫婦で音楽活動を続けていたさなか…突然の別れが襲います。勝さんが病気のため亡くなったのです。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「私はもう独りぼっちになって10年近く何もしてなかったの。音楽も何もしてなかったの。歌うとすぐ思い出して泣いちゃうのね。どの曲を聞いても涙が出ちゃって、歌えなくなっちゃうけど、これじゃできないと思ってたから、歌わないようにしていたの」

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子

悌子さんは、歌を封印することにしました。

夫の死を境に、歌を封印する日々が10年も続いたあと、突然、悌子さんの心に、音楽への衝動が沸き起こってきました。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「喫茶店で、お茶飲んでいたらジャズが流れてきて、それを聞いてまたムラムラって湧いてきちゃったのね」

87歳になった悌子さんは、今月末に控えた思い出の場所でのライブにむけて、体力づくりに取り組んでいます。発声練習は毎朝欠かしません。

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「ライブやるプラザハウス、55年前にレコードとかドレスとか靴を買いに行ったの、あっちなのね。だから思い出深いとこ、なんかしょっちゅうあそこでレコード買ってたから、そこでね、55年ぶりにまた歌えるってことはなんて幸せだろうと私は本当に思ったの、もういつ逝っちゃったっていいわと思って、本当にそういう気持ちなのね」

米軍統治下の沖縄で、日常にあふれるジャズの音色に心を動かされた少女は、ジャズマンと恋に落ち、ジャズが人生の全てになりました。

ジャズシンガー 齋藤悌子さん「一番青春時代に出会いましたからね、ですから今でも家で聞くともう涙が出てしょうがないの、ジャズ聞くと感動しちゃうのね。あの頃の音楽が流れると、1人で泣いてるの。やっぱり好きなのね。ジャズが」

悌子さんは、沖縄ジャズ黄金期の賑わいを、朗らかで力強い声にのせて届け続けます。

復帰50の物語 第41話 時代を映す歌声・ジャズシンガー齋藤悌子