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75年前に起きた学童疎開船「対馬丸」の悲劇。それは決して過去の出来事として終わらせるものではありません。対馬丸が今の私たちに残す教訓とは何なのか考えます。

火花をあげて上に(船が)持ちあがてって沈んでいきました。

中村清さん「火花をあげて上に(船が)持ちあがてって沈んでいきました。」「もう怖かったですよ。」

中村清(なかむら・きよし)さん。中村さんは75年前、対馬丸がアメリカの潜水艦に攻撃され沈没する光景を対馬丸とともに九州に向かっていた和浦丸(かずうらまる)という疎開船から見ていました。

中村清さん「煙と赤い灯みたいなものがうぉーと、明るくなってましたね。」Qどれぐらいで沈没しました?「あっという間。瞬間に」

75年前のきょう、1788人を乗せた学童疎開船対馬丸がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没。児童784人を含む1484人が犠牲になりました。

中村清さん「もうみんな飛び込み準備していましたよ。こっちもやられるんじゃないかということで。」

沖縄での疎開は1944年7月から始まりおよそ6万5000人が九州へ、1万人あまりが台湾へ疎開しました。

海鳴りの像、仲村リポーター「こちらには乗っていた船が撃沈し犠牲になった方々の名前が刻まれています。」

那覇市にある海鳴りの像。対馬丸と同じように攻撃を受けて撃沈した船に乗っていた1547人の犠牲者の名前が刻まれています。

那覇市にある海鳴りの像。対馬丸と同じように攻撃を受けて撃沈した船に乗っていた1547人の犠牲者の名前が刻まれています。

一体なぜ、子どもたちを乗せた疎開船は敵艦の待ち受ける危険な海に出なければならなかったのか。

Qなぜ危険な海に出なければならなかったのか?対馬丸記念館理事長の高良政勝さん「じゃあ残るかと」「敵軍がアメリカ軍が押し寄せてくると。そしたらこんなちっさい島 全滅。それよりはまだ多少可能性はあるから行こうと」

対馬丸記念館理事長の高良政勝(たから・まさかつ)さん。高良さんは対馬丸事件の生存者です。

対馬丸記念館理事長の高良政勝さん「対馬丸も疎開船とはいっても中には兵隊も軍事物資も乗っていますから敵にとってはそれを見逃すわけにはいかない。子どもたちを盾にして移動しているようなものです。」

対馬丸から生きて帰ることのできた高良さん。その奇跡の理由に父親の存在がありました。高良政勝さん「恩人と言ってしまえばそれだけですが、とにかく親父の命を私にくれた。」

Qどうやって生還できたのか?高良政勝さん「最初私は自分一人でいかだにつかまっていたと思っていた。我ながら4歳の子供が2晩3日、海にいて我ながらよくやったなと思っていたら、実は親父が後ろから支えていた。」

しかし、二度と高良さんが父親の顔を見ることはありませんでした。

高良政勝さん「救助の船が来て船員が僕を船に引き上げた。その時点まで親父は一緒だった。しかしその後船員の話によるとロープが切れて沈んでしまったと。」

当時疎開船として使われていた船のほとんどは政府が民間から借り上げた船でした。

Q対馬丸はもともと貨物船でスピードが遅かった?狙われるのも目に見えていた?高良政勝さん「3つの船の中でもとりわけ対馬丸が遅かったらしい。ですから狙わ れた。」

政府が民間の船を借り上げ使用する。これは決して過去の話ではありません。政府は2016年度の国家予算に民間船舶を借り上げ船員を予備自衛官補として採用するための予算を盛り込んでいました。

民間人船員・民間船舶の徴用を思い起こさせる事だとして絶対反対ということを表明

全日本海員組合中央執員 立川 博行(たちかわ・ひろゆき)さん「民間船舶を有事の際に活用するということや、その運航を行わせるために民間船員を予備自衛官補とすることは、いつか来た道として過去に行われた民間人船員・民間船舶の徴用を思い起こさせる事だとして絶対反対ということを表明した。」

全日本海員組合はすぐさま声明を発表。民間船員を予備自衛官補とすることは事実上の徴用だとして抗議しました。

立川 博行さん「つい最近だと、6月13日にホルムズ海峡付近で日本関係戦船舶を含む石油タンカーなどが攻撃を受けた事件が発生している。船員が安心して就労できる海、家族が安心して送り出せる平和な海を今後も希求していこうと」

対馬丸の沈没から75年。同じ過ちを繰り返さないためにも対馬丸から学ぶべき教訓とは・・・

Q対馬丸から学ぶべき教訓とは? 高良政勝さん「この戦争というのはもちろん戦争自体は大人がするものだが、その被害は大人だけではない、軍人だけではない。民間人とりわけ子供たちに被害が大きい。」

Q記念館の意義とは? 高良政勝さん「ただの記念館ではなく未来を指し示す羅針盤のような役目を担っていると思う。戦争に向かってはいけないよ、ということを示しているのが対馬丸記念館ではないかなと思うんですよ。」