サイパンで戦争を体験した90歳の女性が、辺野古で新基地建設に対する抗議活動を行っています。女性を突き動かすものは何なのか。

そして私たちに何を伝えようとしているのか取材しました。

横田さん「ごめんね。時間稼ぎさせてくださいね。気をつけて」

名護市辺野古。新基地建設のための資材を運搬するトラックの運転手に語りかけるこちらの女性。

シリーズ「慰霊の日〜受け継ぐ〜」(5) サイパンを忘れないで

横田チヨ子さん90歳。6年前、新聞で辺野古の状況を知り、自分の目で確認しようと辺野古に足を運びました。

横田チヨ子さん「悲しかったです。同じ県人同士でね、いがみ合って、ひどかったんですよもう本当に人間扱いじゃなかった。」

週に2、3回、自宅のある宜野湾市から辺野古に足を運び、警察官や作業員らに静かに語りかけています。

横田チヨ子さん「みんな私の孫だと思ってるんだよって。そのくらい思ってこうして来てるんであってね。そう思ったら手荒なことはできないでしょうって。」

シリーズ「慰霊の日〜受け継ぐ〜」(5) サイパンを忘れないで

横田さんは、1929年に現在の沖縄市池原で生まれ、3歳のころに親に連れられサイパンに渡りました。

日本の委任統治下にあったサイパンには、多くの人がサトウキビ栽培や製糖業などに従事するため海を渡りました。その多くが沖縄からの移民でした。

沖縄本島にアメリカ軍が上陸する10カ月前の1944年6月、サイパンに戦がやってきました。

空襲警報の鐘が鳴り響き、海からはアメリカの軍艦から艦砲射撃の鉄の雨が降り注ぐ中、横田さんは、多くの避難民と日本兵とで混雑する道中で、惨劇を目にしました。

シリーズ「慰霊の日〜受け継ぐ〜」(5) サイパンを忘れないで

横田チヨ子さん「ピューっていったときには、弾は通り過ぎているけど、バカンっていったらそこに落ちてね。首が落ちて、歩いてポトンと、これがもうとっても気持ちが悪い。首がなくなるって想像つきませんよね。首がなくなった人が2、3歩歩いてパタッて倒れるのよ。そこを道いっぱいの中から弾が飛んでくるのよ、ピューピュー、ドカンドカンって」

今でも多くの人が行き交う様子を見るとあの日の記憶が蘇ると言います。今ある基地と過去の戦争体験とが結びつき、トラウマとなって横田さんを苦しめ続けています。

横田チヨ子さん「私の家って(普天間)飛行場のそばでしょ。あのオスプレイってのは低音なんですよ。寝ていて目が覚めると戦車。サイパンはね、戦車でこうしてそこの間を兵隊が銃持って弾を撃ちながら、その中を逃げていますでしょ。夢に飛行機(オスプレイ)の音だけど、戦車に追っかけられる夢で目が覚める場合があって。」

シリーズ「慰霊の日〜受け継ぐ〜」(5) サイパンを忘れないで

那覇市の識名霊園にある慰霊碑。ここにはサイパンやテニアンなどで亡くなった人たちが祀られています。

横田さんはサイパンでの戦争で、父と兄、そして3歳の姪を亡くしました。多くの死を目にし、心身ともに追い込まれた横田さんは一緒に逃げ惑う姉と自殺を試みます。

横田チヨ子さん「もう死ぬほうが楽だっていう気持ちで、(誰も)いないし、ここにいたって食べ物もない。もう海の中に入って死のうよって。で入ったんです海に。私が先になるから姉さんは私の後ろについておいでよって、遠浅。ゆっくりゆっくり行ったら、深くなるにしたがって波をかぶるじゃないですか。この波をかぶるあれが苦しくて。」

横田さんは、何度も死のうとしたものの死ぬことができず、壕に身を潜めていたところをアメリカ兵に見つかり、捕虜となり生き延びることができました。

慰霊碑の周りにはサイパンで育った植物が植えられています。

「戦争は沖縄本島だけではない」横田さんは、「沖縄戦」という括りから切り離された南洋諸島での戦争が風化してしまうのを恐れています。

シリーズ「慰霊の日〜受け継ぐ〜」(5) サイパンを忘れないで

横田チヨ子さん「サイパンとテニアンのことを皆さんに忘れてほしくないです。」

6月23日、慰霊の日。横田さんの姿はここにありました。

横田チヨ子さん「私なんかが得てきたこの嫌な思いを、今の若い子たちにはもう絶対にさせてはいけない」

あの戦争を忘れないよう。そして二度と繰り返さぬよう横田さんはきょうも静かに語り続けます。