慰霊の日リポ―トです。きょうは沖縄戦最後の激戦地となった糸満、魂魄の塔に上間記者がいます。上間さん。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

上間記者「ここ魂魄の塔は、沖縄戦の後、住民たちが、野ざらしになっていた遺骨を拾い集め終戦の翌年に作られたものです。ここには、一時、およそ3万5000にも上る骨がありました。きょう、魂魄の塔には、朝から多くの人が訪れ、静かに祈りをささげていました。人々は、何を想い、何を願って手を合わせていたのでしょうか」

お話を聞いているとこの魂魄の塔が、沖縄戦で犠牲になった人々の「生きた証」としてこの地に建ち続けていると強く感じました。

魂魄の塔には多くの名も知らぬ骨があるようにおよそ9万4000人の民間人の命が奪われた沖縄戦では、家族全員が犠牲となる「一家全滅」によって親族による供養さえできない人々がいます。その悲惨な状況を目の当たりにした人に話を聞きました。そこには忘れてはいけない記憶があります。

旧西原村、沖縄戦当時、村民の2人に1人が犠牲となる激しい戦いが繰り広げられました。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

玉那覇香代子さん。当時11歳。翁長地区で生まれ育ちました。玉那覇さんが案内してくれたのは、翁長地区にある町内の犠牲者の名が刻まれる刻銘板です。

玉那覇さん「私たちは屋敷内の片隅にある小さな家に住んでいたけど、この大きな貸してくれた大きな家の方はね、全滅。おじい、おばあ、娘さんね。あーいえな、1人も残らん」

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

これは町がまとめた世帯別被災者記録。翁長地区の欄には「一家全滅」と記された場所が目立ちます。翁長地区では全世帯の38%にあたる71世帯が一家全滅となりました。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

家族とはぐれて1人で避難を続けていた玉那覇さん。翁長地区の人が避難していた馬小屋へと逃げ込みます。ある日、同じ年だったトシ子さんの母親に連れられ馬小屋を離れました。しばらく歩いたその時です。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

玉那覇さん「その馬小屋にね、艦砲射撃がビューンばバーンって。ずっと大砲、爆弾も艦砲射撃も落ちるわけ。そしたら(人々が)飛び散るのよ。見えよった、山の上から。そしたらおばさんが『トシ子よ、トシ子よ』して降りたさ。トシ子は壁に沿って、こんなして死んでいたよ」

この馬小屋では20人以上が亡くなりました。


5月末、アメリカ軍は首里を占拠。日本軍は南部へと撤退し戦いの場は南へと移ります。

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

糸満市米須。県道沿いに静かに建つある慰霊碑があります。忠霊之塔です。この慰霊碑の下にはアメリカ軍の攻撃により、多くの家族が命を落としたガマがありました。ガマの名は「アガリンガマ」慰霊碑には犠牲となった50家族159人の名が刻まれています。

久保田さん「(入り口は)大体その辺じゃなかったかな」

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

久保田宏さん。当時4歳。家族でアガリンガマに避難していました。

久保田さん「2,3歩降りたら、踏み台の40センチ角ぐらいの石があった記憶があります。そしたらまた30センチぐらい下がって、それからは階段じゃなくて坂になって。急じゃないけど少し傾斜の道があったんです」

久保田さんの母親は、ガマの入り口近くで亡くなりました。

久保田さん「母が亡くなったのは19日です。食事の調達から帰ってくるときに、弾に打たれて入り口のほうで。ちょっと入ってすぐ弾にやられて亡くなったみたいです」

幼かった久保田さんに、母親の記憶もほとんどありません。

「どうせ死ぬならきれいな水を飲んで死のう」。死を覚悟した父親は子どもたちを連れて、海岸近くの湧き水へと向かいました。アガリンガマが攻撃を受けたのはそのすぐ後でした。

久保田さん「アメリカ兵も重機か戦車なんかで入り口を埋めて、ドラム缶にガソリン入れて火をつけて流したみたいです。奥のほうにドラム缶なんかあったみたいです。焼けたドラム缶が。それでみんな窒息死しているんですよ。159人かな…」

慰霊の日リポート(5) 忘れない“一家全滅”の記憶

戦後、久保田さんの父親や犠牲者の親族が中心となりこの地に建てた慰霊碑。犠牲になった家族たちの「生きた証」にもなっているのです。

県の遺族連合会の調査では、沖縄戦で一家全滅した世帯は1062世帯いたことがわかっています。その中には、名前すらわからない、残っていない人たちも多くいます。西原町の刻銘板にも名前が載っていない人々が数多くいました。生きた証であるはずの名前すら残せない、これが戦争、沖縄戦のむごさだと思います。

平和の礎には、名前のない刻銘が200名あまりもいます。この世に生まれ、生きたという「名前」さえ残せなかった沖縄戦のむごさがそこにあるような気がします。