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今週金曜日、6月23日は戦後72年の慰霊の日です。そこで、きょうから5回にわたり慰霊のリポートをお送りします。

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

こちらで示しているのは、戦時中の石垣島にあった3つの飛行場です。沖縄戦当時、地上戦はなかった石垣島ですが、この3つの飛行場から空の特攻作戦として出撃し、多くの命が散りました。そして、石垣から初めて特攻作戦で飛び立ったのは、石垣島生まれの青年でした。

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

古びた布地に、紅白の紐をゆわえた筒。73年前、石垣の上空からおとされた、通信筒です。中には当時書かれた手紙が残っています。

甥の伊舎堂用八さん1「「用久元気台湾花蓮港にいることになりました」とこうして、言葉短く。これだけしか書けなかったんでしょう」

差出人は伊舎堂用久。1920年、石垣町登野城に3男1女の末っ子として生まれました。正義感が強く、仲間に慕われる、文武両道の優等生だったといいます。

甥の用八さん「音楽もすきだったようですね。ダンスも好きだったようですよ。荒城の月なんか、上手だったって」

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

18歳で陸軍予科士官学校に入校。航空兵として着実に階級を積み重ねていきます。

戦況が厳しさを増し、非常事態のための特攻作戦が現実のものとなる頃、用久は浜松から台湾の花蓮港に移動。新たな赴任地へ向かう途中、ふるさとの上空から実家をめがけて落としたもの、それが、父へ宛てた、通信筒でした。

台湾で特攻隊長に任命された用久。1945年2月、部下を率いて赴任することになったのは、生まれ故郷の石垣島でした。当時、用久が宿泊した家は、今も変わらずそこにあります。外壁や家の中に残る戦争の傷跡も、間取りも、当時のままです。

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

前盛さん「東の方に一番座、6畳間です。隊長は一番座の方で寝泊りをしていた。そこに籐の椅子を置いてリラックスされることもあったみたいです」

当時2歳だったという前盛喜美子さん。両親から聞いた話を今でも覚えています。

前盛さん「なかなか実家へも行かずに向こうからお母さんやお姉さんが訪問に来ても全然会わなかったそうです。それで、(喜美子さんの)父を通して、(家族に)お断りさせていただいた。そのとき父はとても寂しく、親子でいながら自由に会えない。とても胸が痛くて考えさせられたと父は話していた」

他府県出身の部下を気遣い、家族にさえも容易に会う事はなく、用久はただ出撃の日を待ちました。

前盛さん「(父は)明け方(特攻することを)聞かされて、きょう発つということを聞かされてのですぐ(飛行場に)向かったそうです」

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

用八さん「発つ前の日に私の祖父母は(用久の両親)歩いて10キロ以上の白保の飛行場まで行ったんですがとうとう会えなかった

午前4時、白保飛行場をあとにし、慶良間に向け出発。アメリカ軍の艦隊に突撃、用久、24歳でした。甥の用八さんは、2013年有志とともに石垣島から特攻した31人の名を刻んだ碑を建てました。

用八さん「おじを「軍神」という人もいますが、「軍神」ではない。皆とともに行って戦って、帰らぬ人となっただけでね」

慰霊の日リポート(1) 石垣島に残る 特攻の記憶

用八さん「(Q.用久さんが生きていた証を残したかった?)そうですね。これは何もおじだけではなくて、石垣島から飛び立った31名の皆さんも一緒にこれ(事実)をずっと残したいと」

前盛さんの元には、今も県外から訪れる人がいます。

前盛さん「自分たちはおかげ様で台湾に残ることで命永らえたんだと(言って)隊長の最後をきちんと見届けないと自分の戦後は終わらないんだという事で(訪問に来る)この家は、私がいる限りは保存して平和学習の一部にしていければと考えています」