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2004年8月13日PM2:18沖縄国際大学に米軍ヘリ墜落

中村桂さん(当時)「ヘリの影が見えて落ちると思って子どもが泣き出したのですぐ抱きかかえて外へ逃げたんです」

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中村桂さん(今年)「抱きかかえたときに何かが飛んできた見えた感じがしたんですよだから危機一髪だったのかなと今思えば」

民間地にアメリカ軍のヘリが墜落するあの恐ろしい事故から10年。「あの時、逃げずに寝ていたら・・・」その恐ろしさと闘った日々、しかし、今でも同じ場所で生活を続けています。

中村桂さん「変わらないというのはわかっているけど周りからも「だったら離れればいいんじゃない」とかいう人もいると思うが自分たちの土地なのになぜ自分たちがどかないといけないのか。」

この10年、普天間基地の一日も早い閉鎖を願う一方で、辺野古への新基地建設という政府の条件に振り回された沖縄。中村さんは、今は当時のように「反対」の声が上げられなくなってしまったといいます。

中村桂さん「自分たちがこの街にあるから危険だよと言ってしまうとだったら街がない辺野古の海にと政治家は言うそこで選挙でそれを利用されるのでそういうことが怖いなと。県外移設っていうことになれば私ももっと大きく早く撤去してくださいと言えますがいまはそうじゃないので今は何も言えない。」

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山内正さん「この(13号館の)場所ですねちょうど全部封鎖されていましたね。(宜野湾の消防隊員が)いやいや入れないんだよ調査できないんだよと。」

あの日、事故現場の消火活動と米兵の救助を終えた日本の消防は最後の仕事である火災調査に入ろうとした瞬間、アメリカ軍が張った規制線の外に締め出されました。

山内正さん「1週間後全部石もがれきも破片も立木も全部持って行った状態で警察の捜査も消防の調査も写真を見ながら作り上げた。」

事故当時、県消防学校で教務課長として、大規模災害時の指揮について指導していた山内さん。事故直後、消防学校から、現場に駆けつけました。2年前、県消防学校の校長をしながら、事故現場となったこの沖国大の大学院で当時の状態を消防の立場から検証した修士論文で出した結論。それは当時のアメリカ軍による「封鎖・調査拒否は違法」というものでした。

山内正さん「(1968年に)九州大学に米軍のジェット機が墜落炎上したパイロットは脱出その火災においては福岡消防本部は消火活動と共に調査活動をやっているんです。」

本土で発生したアメリカ軍の事故では日本の消防による火災調査が出来ている一方で沖縄だけがいまだに調査権が及ばない現実に山内さんはその矛盾に声を上げ続けたいと退職した今でも、研究を続け、そして消防学校で指導をしています。

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山内正さん「今後沖縄ではまだそういうことが続くのかなと従ってこういう問題点を各消防に指摘して声を上げていかないと。我々も調査権を執行できるようにさせてくれとそれだけのことなんです。」