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沖縄戦で心身に傷を受けたり肉親を亡くしたりした人たちが裁判で国に謝罪や損害賠償を求めています。その原告のひとりに県出身でアメリカ在住の女性がいます。戦後69年たった今、彼女が伝えたいこととは。

戦後69年 シリーズ慰霊の日(1) アメリカから戦争被害訴え

新垣勝江ガーナーさん「国に認めて欲しいね。それで、謝罪して欲しい。私たちにね。」

先月14日、裁判後の会見でこう訴えたのは新垣勝江ガーナーさん。アメリカジョージア州から原告として参加しました。

新垣勝江ガーナーさん「自分1人、みんな亡くなりましたね。自分1人になった、孤児ね。」

戦前、ガーナーさんは、中城村伊集で生活していました。当時、父・蒲(かま)さんは、出稼ぎに行ったパラオで空襲に遭い死亡、母・ヒデ子さんは避難する途中、はぐれてしまい戦後になってアメリカ軍の攻撃を受けて亡くなったことがわかりました。ガーナーさんは7歳で孤児となったのです。その彼女が見た沖縄戦は壮絶なものでした。

戦後69年 シリーズ慰霊の日(1) アメリカから戦争被害訴え

新垣勝江ガーナーさん「母の姉さん、ヤスおばさんが、首を吹き飛ばされて埋葬するのに、着けるのがないから結婚衣装を壕に持って行って、結婚衣装を着けさせて。いつもいつも、涙流してないていた。夜になると、静かになると…。」

戦後は、祖父母に育てられたガーナーさんでしたが、子どもだった彼女には、その後は苦労の連続でした。

新垣勝江ガーナーさん「夜空を見上げて、どうしてみんな、私から取られて、良い人ばかり生きていない。感傷的になって、一言もものを言わなくなった。それで、夜になると部落中ぐるぐる回った。」

ガーナーさんのいとこの比嘉ヨシ子さんは、彼女の辛い経験を知る一人です。

戦後69年 シリーズ慰霊の日(1) アメリカから戦争被害訴え

比嘉ヨシ子さん「普天間高校、歩いて伊集から普天間まで歩いて行きよったんですよ。戦争終わった時期だったから、バスもない、お金もない…」

高校卒業後、ガーナーさんは自立するため名護市のキャンプ・シュワブで働き、そこで知り合ったアメリカ軍人の男性と出会って結婚し、アメリカへ渡りました。ベトナム戦争に従軍した夫は、戦地から帰ってきた後、トラウマに苦しめられ、自殺してしまったのです。

比嘉ヨシ子さん「飛行機乗ったら、ものすごく怖がって震えていたと言っていた。震えてね飛行機に乗れないほど傷ついていた。それだけ、打撃を受けていたんですね。彼は…。あんな酷い経験をするとね、一生精神に、心にも精神にも影響する。普通の人間がですね。変わるんですよ。」

両親を失った沖縄戦、そして、夫を奪ったベトナム戦争、2度の戦争被害を受けたガーナーさんは、インターネットで沖縄戦の訴訟を知り原告に加わることを決めました。ガーナーさんが瑞慶山弁護士に送った手紙は、「私を助けてください」という言葉から始まっていました。

戦後69年 シリーズ慰霊の日(1) アメリカから戦争被害訴え

「私を助けてください」「両親、父、母は戦争で亡くしました」「私は戦争の被害者です」

瑞慶山弁護士「大変ビックリしましたね。というのは、手紙の内容を見て「私を助けてください」という言葉から始まるんですね。戦争孤児になって、かなり苦しんで、しかもアメリカまで結婚していって、そこでもいろんなことがあって沖縄のことを忘れられないで、自分の戦争被害のことを何十年経っても忘れられないで大変いろんな意味で大変苦労したんだろうなという風に思いました。」

ガーナーさんが遠くアメリカから足を運び、沖縄の人々に訴えた戦争体験、壮絶だった体験は、改めて、どの戦争も悲劇しか生まないということを伝えています。

戦後69年 シリーズ慰霊の日(1) アメリカから戦争被害訴え

新垣勝江ガーナーさん「人間として生まれて、人間でないような死に方して人間として生まれて、人間じゃないような生き方をした。国に認めて欲しい、それから詫びてほしい、謝罪して欲しい。」