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沖縄戦が終わって、ことしで74年。しかし、いまだに土の中からは戦争で犠牲になった遺骨が出てきます。兄弟の遺骨を家族の墓に入れたい。一人の女性の願いの前に横たわる課題とは何なのでしょうか。

Qプラスリポート 沖縄戦から74年 遺骨収集「残された課題」

去年12月に開かれた県議会の文教厚生委員会。そこに、参考人として出席したのは沖縄戦犠牲者の遺骨収集をし、家族のもとへを返すという活動を行うガマフヤーの代表、具志堅隆松さん。この日、具志堅さんは、県議会に対してある陳情を行っていました。

ガマフヤー・具志堅隆松代表「県内各地にある慰霊塔の中に、遺骨が残っている慰霊塔があります。県内の慰霊の塔の象徴である魂魄の塔の中にまだ遺骨が残っているのであれば、ぜひDNA鑑定の対象にするべく、それを確認したいということで、今回の陳情に至りました」

Qプラスリポート 沖縄戦から74年 遺骨収集「残された課題」

志堅さんの陳情は、魂魄の塔を開けてほしいというもの。そこには、ある遺骨の存在があるのではないかと指摘します。

Qプラスリポート 沖縄戦から74年 遺骨収集「残された課題」

具志堅さん「1950年に奄美大島から105体の対馬丸犠牲者の遺骨が沖縄に帰ってきました。そのうち氏名が判明して遺族が引き取ったものがありますが、大多数は氏名不詳や引き取り手がいないということで、魂魄の塔に移されたのです」

児童784人を含む、1400人以上が犠牲となった対馬丸事件の犠牲者の遺骨が入っている話す具志堅さん。その中に、自分の弟の遺骨が入っていると訴える女性がいました。

Qプラスリポート 沖縄戦から74年 遺骨収集「残された課題」

又吉正子さん「私の弟の国吉眞英の名前も一緒について遺骨と一緒にこちらへ戻ってきたんです。それを私どもは知らずに、(遺骨は)そのまま魂魄の塔へ行ったと」

当時の新聞に、遺骨として帰ってきたと掲載されていた弟の名前。しかし、戦後の混乱で、新聞に目を通すことができず、その記事の存在を知ったのも、数年前だと話します。終戦から70年以上たってようやく掴んだ弟の情報でした。

又吉さん「開けてくだされば、はっきりとすとんと落ちるものがあると思います」

終戦からことしで74年。今もなお残る戦後処理についての課題が改めて見えてきました。

Qプラスリポート 沖縄戦から74年 遺骨収集「残された課題」

取材をした船越記者です。具志堅さんたちが県議会に対して行った陳情ですが、そもそも又吉さんが弟の遺骨の場所を手がかりをつかむのには長い時間がかかったんですね。

船越記者「対馬丸が撃沈されたあと、又吉さんの弟は奄美大島に流れ着いたとされていますが、そのことを又吉さんが知ったのは数年前のことでした。おととしの慰霊碑建立の式典の様子です。この慰霊碑建立の話の中で、はじめて又吉さんは弟が流れ着いたことを知りました。その後、弟の遺骨は沖縄に帰ってきていて、そのことは当時の新聞にも報じられたんですが、戦後の混乱で新聞を読むことができず、事実を知らないまま時が流れました。そして、弟との最後を知った又吉さんは一日も早く、弟を両親と同じお墓にいれたいと願っています」

又吉さんの思いを聞くと早く返してあげたいという思いになります。

船越記者「ただ、そこに横たわっているのが慰霊塔に向き合う考え方の違いでした。今、又吉さんらは県に魂魄の塔をあけてほしいと陳情していますが、慰霊塔は県ではなく、遺族会などが管理しているものが多く、県では遺族会の同意があれば調査を行えるとしています。しかし、慰霊塔は供養の場所としての役割があり、再びその場所をあけることに否定的に感じている人もいることが考えられます」

又吉さんのように遺骨を取り戻したいと考える人、慰霊塔を供養の場所と考える人、双方の折り合いをどうつけるのかというのも難しいところです。

船越記者「ガマフヤーの具志堅さんも慰霊塔の役割は十分理解していて、すべての遺骨だけではなく、身元の特定につながる部分だけを取り出したいとしています。国が制定した遺骨収集の法律は2024年までの時限立法となっていて、時間は限られています。それだけに国や県も含めた早急な対応が求められています」