2006年12月12日 18時00分

Qリポート 消えゆくロータリー 誕生秘話

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沖縄の風景は戦前・戦後、そして現代まで、めまぐるしく変化してきました。なかでも、戦後、アメリカ軍によりそのスタイルが取り入れられた時代は「アメリカ世」とよばれ独特の風景を生みました。

その風景のひとつ、ロータリーという西洋式の交通方式があります。開発や交通法の変更でここ数年にも姿を消すアメリカ世の風景、ロータリーから戦後を考えます。

私たちの暮らしの風景は、時代とともにそのカタチをかえたり、また消えたりします。沖縄の戦後に生まれたのがアメリカ世でした。そのなかの一つに「ロータリー」があります。アメリカ軍は軍道を整備しつつ、嘉手納や糸満に西洋式のロータリーをつくったのです。

那覇市の泉崎ロータリーはアメリカ軍が作ったものではありませんが、浄水場を囲む道路として、アメリカ式の交通を取り入れ建設されました。もともと信号がないはずのロータリーですが、戦後交通量が増加し、すべてに信号が設置され、ロータリーは本来の意味を失いました。さらに規模が小さい上に進行方向が分りにくいため、慢性的な渋滞が続く、事故の起きやすい地域にも指定されてしまいました。これを解消するため、現在行われている工事はロータリーの撤去。撤去後は、通行方法の分りやすい安全な交差点になり、西洋式の泉崎ロータリーは今月その姿を消します。

嘉手納ロータリーを車でぐるりと回ってみると、あらためてその大きさを実感することができます。円形道路の直径はおよそ120メートル。日本一といわれるロータリーです。

1945年にアメリカ軍が沖縄を攻撃する直前に撮影した嘉手納町。軽便鉄道や県道が伸び、中部の要所であった様子が上空からもはっきりと分ります。しかし、この年沖縄に上陸したアメリカ軍は飛行場のあった嘉手納を制圧。その年の8月の航空写真では街の様子はすっかりかわり、飛行場とすでに巨大なロータリーが建設されています。軍用車両の行きかうロータリー、そして巨大な基地の横たわる嘉手納の町並みは、それから戦後60年以上にわたって続いてきました。

しかしこの戦後の風景も、いま、消え去ろうとしています。嘉手納町はこのロータリーと、隣接する市街地をふくむ3.7ヘクタールの再開発に乗り出しました。総事業費はおよそ200億です。

南北に走る国道の真ん中にあるロータリーですが、再開発により国道の様子は大きく変わります。あたらしい国道は町役場の裏と基地の間を通り、ゆるやかにカーブしながら北へと伸びていきます。もとの国道は停車帯をふくむゆったりとした道路になり、この道路に囲まれるように、ロータリー内部には公園を中心とする新しい町並みが出現します。再開発で国道の流れ自体を変えるわけです。

嘉手納町再開発推進課・古謝徳淳課長「(国道を)通過する車は流して、逆に嘉手納に進入してくる車はスムーズに入ってもらうということを考慮してこの計画のかたちになっています」

あらたな国道を背にする役場や公共の建物が向き合うことになるのは新町地域。かつては中部の商業の中心として賑わった地域に町内外から人を呼び、再び活性化させることを目的に、来年秋には県内大手のスーパーがあらたにオープンします。町の活性化を求める住民たちからも期待が寄せられます。

嘉手納町民「生まれ変わると聞いています。繁栄してほしい」「嘉手納は購買力も落ちている。新施設で働く人や訪問客が増えれば」「ロータリーがなくなるのは寂しいけど、施設局がくることで活性化されるのではないか」

ロータリー再開発の目玉は、那覇防衛施設局の入居。基地行政をあずかる国の機関が実際に基地被害に苦しむ嘉手納に移ることになります。基地の町がとったのは、基地行政機関をメインテナントにして活性化を図るという策でした。

ロータリーと基地。戦後、アメリカ軍によって占拠された町の中心を60数年ぶりに嘉手納町は開発に乗り出しています。その開発には「ロータリー」という、嘉手納町の歴史に大きく残されたイメージがいかされています。

古謝課長「小さくはなりますが円形の広場が残ります。建物もこの円形広場を中心に取り巻くようなカタチでの配置になりますので、ここが以前ロータリーだったというイメージは残るのではないかと思います」

一つ一つ、消えてゆくアメリカ世の町並み。嘉手納と那覇のロータリーはその姿を消していきます。

糸満のロータリーは嘉手納とは少し違います。いまでも市のシンボルとなっている糸満ロータリーは原型はアメリカ軍が作りましたが、強制的ではなかったようです。終戦をむかえ、糸満の中心・山巓毛の周辺は瓦礫の山でした。

当時の新聞によると、アメリカ軍は終戦後すぐに住民受け入れのため、市内の整理作業に着手。住民とともに復興作業を進めた様子がいまでものこっています。アメリカ軍と市民との共同作業で広場となったこの中心地に、その後ロータリーが作られ、沖縄では初の歩道つきの道路が伸びていきました。糸満のロータリーが市民に親しまれているのはそれが「市民のために作られたものだったから」なのです。

県内各地に残るロータリーも、それぞれ作られた経緯が違うんですね。半ば強引に持ち込まれたアメリカ世の風景ですが、同じロータリーでも強制的に作られたものはいつしか時代の流れに消え、地域のために生まれた町の風景は、残るものなのかもしれません。

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