収容所から戻るときに家族の遺体を掘り起こすケースが多発したため、アメリカ軍は65年前の今日、密葬や洗骨の禁止令を出しました。 宜野座小学校の敷地にあったアメリカ軍の野戦病院。当時7歳で、左腕の骨が見え…
65年前のきょう、ようやく那覇にも住民が帰ってきました。先遣隊は壺屋焼きの職人たちでした。陶芸の町、那覇市壺屋。毎年11月には陶器まつりが開かれ地域の子どもたちから観光客まで、大勢の人たちで賑わいます…
あす告示され、17日間の選挙戦に突入する県知事選挙。仲井真知事と伊波前宜野湾市長の事実上の一騎打ちで、2人とも支持拡大の為に、もうすでにフル回転で県内を駆け回っています。 県民はどちらに県政のかじ取り…
オキナワ1945島は、戦場だった拡大版です。今流れているこの歌は、叙情歌の「二見情話」です。毎年名護市の桜祭りで「二見情話大会」が行われるほど多くの人に愛されている歌ですが,恋の歌のイメージがつよいで…
65年前、ひとりのアメリカ軍将校が当時の様子を知る資料をマイクロフィルムに記録していました。 「食事は一日一度」「野菜や海藻でしのいでいる」「助けてほしい」 65年前の11月、宮古島、平良町長からアメ…
65年前のこのころ、収容所から戻った少年が見たのは、地上戦の犠牲になった住民の姿でした。 渡久地昇永さん「毎日もう10名ぐらいの人が亡くなって」 1945年6月、アメリカ軍が名護市辺野古に設置した大浦…
沖縄の警察組織の再構築を目指していた沖縄諮詢会は65年前のきょう、アメリカ軍政府に警察学校設置計画を提出します。 沖縄戦で解散した沖縄県警に代わり、各地域の収容所ではアメリカ軍政府の隊長が警察署長と民…
65年前の11月。10歳の少年はいっしょに逃げていた両親を戦場で失いました。安里宗次郎さん75歳。65年前の梅雨のころ、両親と弟の4人で南部の自然壕 に身を潜めていた時、父は防衛隊へとられ、壕は日本軍…
65年前、共に戦火を逃げ惑った母と娘は捕虜となり送られた収容所で生き別れてしまいました。 屋嘉比敏子さん「こういう格好の人を見ませんでしたかって言ったら『その方は昨日亡くなられたのに』(と聞いた)。私…
65年前、県内では食料物資などの配給だけで現金の流通はありませんでしたが、8月から10月末まで、久米島ではアメリカ軍政府が金券を発行していました。 貨幣史研究家・山内昌尚さん「アメリカ軍政府が人々を基…
65年前のこのころ、収容所や病院などでは生死もわからなかった家族との再会のドラマがありました。 島袋文子さん「捕虜にされた時の怖かったこと。見たら赤毛の青い目の身長の高いのがいっぱいいて」 6月、南部…
すべてが不自由だった戦後の暮らし。住民達はアメリカ軍が投下した爆弾の破片など、使えるものはすべて生活に利用しました。 これは、アメリカ軍が火炎放射に使用したとみられるボンベを鐘として再利用していたこと…