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シリーズでお伝えしています「復帰50の物語」。埋め立て工事が進む辺野古・大浦湾の海を中心に写真家、そして船長として活動する男性がいます。コザ生まれの彼の目に映る復帰50年とは。

牧志さん「人間は海に育まれて、海から生まれてきた、海から芽生えてきた命。その海に人間は畏敬の念をもつのと感謝をもつのを忘れたら人間はおしまいじゃないかと思う、そういうのが全部人間にしっぺ返しで帰って来る」

原型をとどめず大破したオスプレイの衝撃的な姿。そのすぐ近く、大浦湾のまるで竜宮城と見まごうばかりの美しいサンゴや魚たち。埋立工事が始まって以降の、変わり果てた海のようす。そのなかでも行われた命の営み、サンゴの産卵。

辺野古の新基地建設を止めようと、抗議の声をあげ続ける市民たち。今なお押し付けらている過重な基地負担の現状を「海」という視点から捉えています。

牧志さん「海から生まれてきた我々が海を忘れちゃいけない」

復帰50の物語 第11話 写真家の歩んだ50年

2月半ば。辺野古にあるカフェで開かれた写真展「海に還る日」。撮影したのは辺野古に関わって20年あまりになる写真家・牧志治(まきし・おさむ)さんです。終戦から5年、アメリカ軍による基地化が進んでいた1950年にコザの街で産まれた牧志さん。

牧志さん「父の兄が南洋興発っていう満鉄と似たような国策企業に就職した、その関係で」

牧志さんの両親は第二次世界大戦で日米の攻防が続いていたサイパンで激しい戦火に巻き込まれました。追い詰められ、壕の中で自決しようとしたといいます。

牧志さん「父が1歳の子の首を絞めて呼吸が止まったから次に母の首を絞めている。最中に死んだはずの男の子が息を吹き返した、それでもう殺せなくなって」

最終的に両親はアメリカ軍の捕虜になりました。

牧志さん「せっかく助かった息子が、捕虜生活の栄養失調で死んでしまった。沖縄の人たちは皆そういう歴史を持っている、戦争にまつわるそういう話」

戦争が終わり、引き揚げてきた牧志家はコザの街で暮らし始めます。父親がアメリカ兵を相手にした写真館を営んでいました。

牧志さん「殆どが米兵の写真、沖縄の人は写真を撮る余裕ないから。そういうポートレート写真を撮って僕たちを育てた」

アメリカ統治下で沖縄を出るにもパスポートが必要だった1968年。牧志さんは福岡の大学の、芸術学部・写真学科に進みました。

牧志さん「日の丸に対する憧れみたいなのがあった時代がある、今は全く違うけど(笑)」

復帰50の物語 第11話 写真家の歩んだ50年

大学で牧志さんが感じたのは強烈な「本土とのギャップ」。子どもの頃から自分は日本人なのか?そうじゃないのか?よく感じることがあったという牧志さん。

牧志さん「沖縄から本土に進学した人たちっていうのは殆どの人が経験してると思うけど、自問自答するんですね自分は何者かっていう」

本土に復帰した1972年、牧志さんは大学4年生でした。沖縄の人が望んだ復帰の形ではなかったことに、福岡にいながら大きく落胆し、悶々としていたといいます。

牧志さん「仲間と酒飲んで商店街で溝にはまって落っこちて、そのままそこで寝ちゃって朝方商店街を通っているお婆ちゃんに『学生さん、もう朝ですよ』って起こされた(笑)。それが復帰の日の思い出」

大学卒業後、東京で雑誌の記者兼カメラマンやコピーライターとして働きました。1980年に沖縄に戻ってきてから、スキューバダイビングのインストラクターとして働くようになります。

牧志さん「出て行って初めて(わかった)。はっきりと自分の今現在の元になったのは福岡と東京にいた時代。沖縄にそのままいて沖縄の大学出ていたら、今の僕とは違う道を歩んでいた」

いま牧志さんは辺野古の新基地建設反対を訴える「ダイビングチーム・レインボー」の船長として、埋立土砂の投入で刻一刻と失われつつある辺野古・大浦湾の海に目を光らせ続けています。現場の水中写真も積極的に撮影しています。

復帰50の物語 第11話 写真家の歩んだ50年

牧志さん「海が人間みたいに話せるんだったら多分怒っていると思うけど。自分勝手なことするな!って」

牧志さん「きょうも大浦湾撮影したけど、それが記録になるっていうことは既になくなっているわけでしょ、そういう悲しい状況にはしたくない。今こういう海があるよ、こういう海を残していこうと思える写真にしたい。かつてこうだった、今はもうないじゃなくて、今こんなに素敵な海があるんだよ、これをいつまでも残していこう

じゃないかっていう」

アメリカの統治が終わって半世紀。基地負担が重くのしかかったままの、この島。埋められ、失われてゆく海。平和を願った沖縄の理想とは全く逆の、現実との埋めがたいギャップ。ひとりの写真家がシャッターを切り続ける意味は、そこにあるのです。