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65年前の今頃、山に避難していた名護市辺野古の住民らはほぼ全員山を下りて、早くも学校も復活していました。

初枝さん「私たちは食べ物もいっぱいあったし別に、苦しいというあれはなかったけど」

沖縄本島でも最も被害が少なかったといわれる北部東海岸でも、空襲が頻繁になった3月にはそれぞれが山に作った避難小屋で生活していました。

4月初旬、辺野古はすでにアメリカ軍に占領され、逆に中北部で捕虜になった住民が続々と集落に入っていました。

初枝さん「私はあの時18歳になっていたけどね、山で(米兵に)会ったときに、こんだけ(12歳)になるか?というからウンといったよ」

辺野古住民は、呼び掛けに応じて5月には山を降り、久志の収容所で簡単な取り調べを受け、翌日には家に帰れました。戦闘による犠牲者はほぼいませんでした。

繁盛さん「山から下りてきてすぐもう学校はありました。アメリカの命令で。すぐ降りてきて時期から。(Q:じゃあもう5月から?)はい。あった。ペンシルとかノートの配給とかいろいろありました。お菓子まで」

4月までの死者は、およそ2万人余り。住民の戦死者のおよそ8割はこれから後、5月以降に発生していますがこの時期、すでに自分の家や学校を取り戻した地域もあったのです。

繁盛さん「南部ではまだ戦争しているのに、この殺されている人達と米軍とが親善野球大会やったというのもあるわけです。おもしろ話に」