10月、疎開先の熊本で終戦を迎えた大城ミヨさんは変わり果てた故郷の姿に愕然とします。 大城ミヨさん「生きてて良かったねって言った時に、何とも言えませんでした、母が抱きついてきてね。それが脳裏から離れま…
終戦直後、日本軍の爆弾などが各地で海中に投棄されましたが、当時16歳の少年もその作業に携わっていました。 手登根恵貴さん「下崎という、この辺りの場所に弾はみんな落とされているわけです」 手登根さんは当…
65年前のこの時期、アメリカ軍からの食料配給が各地で滞ります。その対策に乗り出したのが住民と軍政府をつなぐ沖縄諮詢会でした。 アメリカ軍政府が民間人に食料の配給を始めたのは6月ごろから。しかし9月には…
65年前のこのころ、収容所では住民たちがアメリカ軍の作業をして生活物資を得る軍作業が始まりました。 本島上陸以降、アメリカ軍は沖縄守備軍と闘いながら、次々と住民を収容所へ送り込みました。琉球大学の川平…
10月には運動会シーズンですが、65年前のこの頃、早くも再開した学校で運動会の練習に励んでいた少年がいました。 那覇市に住む宮城定吉さん(77歳)。7人家族だった宮城さんは南部で家族5人を失い、戦後は…
日本の勝利を信じて山奥に隠れていた女性が65年前この頃、人里へ降りてきました。 喜屋武達子さん「どんなことがあっても降参しない。勝つつもりなんですよね」 喜屋武達子さん(81歳)は、ひめゆり学徒隊の最…
この写真は1944年の10月10日、10・10空襲に襲われる那覇市の様子。いまの那覇軍港のあたりが爆撃を受け、黒煙が上がっています。この大空襲、そして地上戦の中を生き延びた看護学生の少女は、65年前の…
戦後2番目の高校、コザ高校が開校。授業の再開、同級生との再会。そこにはふたつの喜びがありました。 花城さん「だいたいあの一帯あたりでした。今はその跡形もない」 65年前の10月7日、沖縄市・室川小学校…
沖縄戦に参加したアメリカ兵士の日記を紹介します。 1945年10月7日(日)きょうもまた待機だけだった。こんな無意味な仕事から抜けられるのはいつの日になるのやら、とふと考えた。 この本は「アメリカ一水…
八重山でも着々と武装解除は進み、物々しい兵器が処分されましたが、島は戦火とは別の恐怖に苦しめられていました。 8月29日、石垣島では日本とアメリカの会議が開かれ八重山の武装解除が始まりました。八重山の…