15年前のきょう、大きな地震と津波が東北地方を襲った東日本大震災。警察庁はおととい、この15年間の人的被害をまとめ公表しています。
それによりますと、おもに東北3県で1万5901人が亡くなり、今も2519人の行方が分かっていません。最も人数が多いのは宮城県です。
あの日、沖縄から遠く離れた仙台市で被災した県出身者がいます。話を聞いてきました。
宮城県名取市、震度6弱の揺れと巨大な津波によって、965人(関連死含む)が犠牲となった宮城県名取市。穏やかな海はあの日突然、牙を向きました。
あれから15年。甚大な被害を受けた沿岸部には災害公営住宅が建てられ、2020年まで宮城県内で最も多い182戸の仮設住宅が並んだ丘陵地には、新たな団地が生まれていました。
仙台空港に建立された慰霊碑では犠牲者を悼もうと、今も月に2度ほど地元の人による鐘の演奏が行われています。
名取ロータリークラブ 鎌田豊会長「亡くなられた(人の)家族は、今でもまだ悲しい思いをしている。まだつらい人がいっぱいいて、それを思うと(活動を)やめることもできない」
仙台市内のカルチャーセンターで三線教室を担当する加屋本正一さん。竹富町の波照間島出身で、妻の実家がある仙台市で40年以上暮らしています。東日本大震災が発生した15年前のことを今も鮮明に覚えています。
加屋本正一さん「(15年前のきょうは)寒くて雪が降っていた。自宅にずっといて。沖縄の人って沖縄で大きい地震がないから、すぐ外に飛び出した。瓦が落ちてきて当たって死ぬ(と思った)から。かなりすごかった。2回くらい揺れたから、家が潰れるかなと思うくらい、怖くて」
農業や内装業を経て、震災当時は沖縄料理店を営んでいた加屋本さん。電気やガスが止まり、1カ月の間店を開くことはできませんでした。余震も続き、先が見えない不安にも襲われましたが、耐えるしかありませんでした。
加屋本正一さん「死ぬのかなと思った。沖縄で大きい地震はほとんどなかったから。地震に対しての恐怖心が昔からあって、今でも高層ビルに上ると、地震が来たらどうしようと考える。それだけ地震が怖くて」
それでも震災から2週間後、名取市に足を運び避難所に身を寄せる人たちに三線と島唄で寄り添いました。
加屋本正一さん「それくらいしかできないのかなと考えて、歌で元気づける方法があれば、それでもいいのかなと。でもなかなか難しかった。曲を選ぶのが。『流れる』という歌は使えなくて、例えば花という歌がある。『川は流れてどこどこ行くの』流れてという歌詞を気にして、そういう歌は外して、いろいろ考えた」
被災地での活動を続けた加屋本さんは、かつて同じように津波に襲われた故郷・波照間島に思いを馳せていました。1771年に起きた「明和の大津波」です。
加屋本正一さん「昔私の(波照間)島から石垣島白保とか大浜とか、津波で被害があった時に、白保に約480人、大浜に489人が分けられて、(波照間島民が)三分の一くらいになった。あちこちに分かれるけど、そこで育って、そこから逃げないで住んでいるのが震災と感じて」
東日本大震災から15年。加屋本さんはこれからも復興に向かう被災地に暮らしながら、遠く離れた故郷への思いを重ねます。
加屋本正一さん「震災の時に絆という言葉をよく使った。絆は沖縄でいうと、言葉を変えれば結、それと似ている。自分たちの集団生活、昔ながらの生活を大事にしていく、人と人とのつながりを大事にしていく。そういうものに感じた」
