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こんにちは、ここからは、ニュースQプラスです。71年前の8月、日本に2つの核爆弾投下され、広島で14万人、長崎で7万4000人の命が奪われ、その後も、大勢の人が苦しみの中、亡くなりました。

あすは長崎、原爆の日ですが、当時、長崎で被爆した沖縄の方がいたことをご存知でしょうか。

Q+リポート 長崎で被爆した県出身者の苦悩

伊江和夫さん「大きな稲光を浴びて、しばらく間をおいてドカンという爆発音ですか。」

71年前のことを鮮明に語るのは、県原爆被爆者協議会の理事長を務める伊江和夫さん。伊江さんは長崎の造船所で勤務していた16歳のとき被爆しました。

伊江和夫さん「爆風が道路上の砂ほこりを舞いあげて、目の前が真っ暗になった。地面に伏せて、しばらくたってから横穴防空壕に避難した。」

原爆が投下された時、長崎や広島にいた人、また、2週間以内に救援活動や親族を探すために爆心地周辺に入ったいわゆる被爆者と呼ばれる人は沖縄にも163人。彼らはふるさとに帰ってからも、沖縄が置かれていた複雑な事情から本土の被爆者とも違う苦悩を味わいました。

凄惨な戦を経験し、戦後27年間もアメリカ軍の統治下に置かれた沖縄。本土では「原爆医療法」が作られ医療的にも支援が始まりましたが、沖縄の被爆者たちにはその法律が適用されなかったのです。

Q+リポート 長崎で被爆した県出身者の苦悩

これは県原爆被爆者協議会が1991年に発行した記念誌です。この中には、アメリカ軍統治下の1965年沖縄でも172人もの人たちが被爆者として確認されていたこと。

その人たちが「原爆医療法」が沖縄で適用されないのは憲法違反だとして国を相手に医療費を求める訴えを起こした経緯が書かれています。

伊江和夫さん「復帰するまでは法律の適用がないわけですから、病気になっても医療費は自己負担と。」

彼らに支援の手が届くのは投下から34年後のことでした。しかしせっかく勝ち取った権利も、多くの被爆者が差別を恐れて名乗りでなかったと言います。

伊江和夫さん「色々な誤解があって、被ばくは遺伝するとか、放射能の障害が出るとか、結婚してどうなるのかと、そんな話をいっぱいする人は多かった。言葉はかけないけど差別があったのは事実。」

Q+リポート 長崎で被爆した県出身者の苦悩

伊江さんたちにとって今年待ちに待った出来事がありました。オバマ大統領の広島訪問です。

伊江和夫さん「広島、長崎に原爆が落とされて71年、核軍縮どころか、核兵器廃絶に向けた動きはほとんどなかったと。これはまさにお先真っ暗と。長いトンネルに入ったのではという気がしていて。核兵器廃絶に向けて動き出すんじゃないかと期待しているんですね。(オバマ大統領の広島訪問は)大いに大歓迎。むしろ遅きにししたと。もっと前に来るべきだったと考えている。」

しかし、心配なこともあります。被爆者の高齢化が進み、次々に亡くなる中、この体験をどうやって伝えていくか。また、広大なアメリカ軍基地を抱える沖縄がまた戦争に巻き込まれるか案じているのです。

伊江和夫さん「米軍基地がなかなか縮小できないのが大きな悩み、ジレンマがあるわけです。若い人に伝えてほしいのは、広島、長崎、沖縄について勉強してほしい。」

県内にも172人の被爆者がいたんですね。

そして、同じ原爆の犠牲者であっても、支援の手が届くのが、沖縄の場合は34年後だった。地上戦の犠牲と合わせ、どれほどの苦しみがあったのかは想像に難くないですよね。

平和を託された私たちは、沖縄戦だけでなく、あの戦争の時代に他の地域で何が起きていたのかもっと知る必要がありますね。