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1972年5月15日、34年前のきょう、アメリカによる27年間の統治が終わり、沖縄が日本に復帰しました。実は、この復帰の前の年、大きな転換期を控え、沖縄ではこれを機会に「基地のない平和な島」にしたいという思いが盛り上がりました。その思いを政府に訴えるため作成されたのがこの文書、県民の思いを集約させた「復帰措置に関する建議書」です。

日本復帰を控えた沖縄の人たちが基地のない島にしたいと政府に訴えるため作成した「復帰措置に関する建議書」。「自治の確立」や「反戦平和」「基本的人権の確立」「県民本位の経済開発」など、沖縄の人が求める未来像を描いたものです。

アメリカ兵の起こした事件や事故が無罪になるなど、住民の生活よりも基地の存続が優先されていた沖縄。復帰すれば基地はなくなり、安心して暮せる日が来る。そう信じていた沖縄の人たちの耳に入ってきたのは、日米間で沖縄に基地を残す方向で話が進められているということでした。

弁護士の金城睦さんは当時建議書の制作に関わったひとりです。

金城弁護士「基地はそっくりそのまま残るし、今まで県民がいろんな形で犠牲になったのに、その犠牲を回復しようということをしない」「それじゃおかしい。何のための復帰なんだ」

「建議書」には、基地のない平和な島としての復帰を求める沖縄の切実な思いが注がれました。そして、復帰の内容を審議している国会に反映させようと、当時の屋良首席が「建議書」を携えて羽田に到着したその時、屋良首席の上京を知っていたはずの国会は、アメリカ軍基地の存続を認めた「返還協定」を強行採決します。この時、県民の思いを訴える道が閉ざされたのです。

当時の屋良主席のメモ「強行採決をされたことを知って、非常にショックを受けた。唖然となって所見を聞かれても何の答えもできないほどであった」

結局、日本政府は基地問題を解決することなく沖縄返還の日を迎えました。以来、「建議書」で指摘されたことの多くは今も私たちの生活に覆いかぶり、繰り返されています。

「基地機能については、段階的に解消を求める声と全面撤去を主張する声はおそらく80パーセント以上の高率となります」「沖縄の復帰は基地の原状を堅持しさらに自衛隊の配備が前提となっているとのことであります。これは県民意志と大きくくい違い、国益の名においてしわ寄せされる沖縄基地の実態であります」

沖縄だけに本土と異なる特別立法をして、県民の意志に反し5ヵ年という長期にわたる土地の収用を強行する姿勢は県民にとっては酷な措置であります。従来の沖縄は余りにも国家権力や基地権力の犠牲となり、手段となって利用されすぎてきました。復帰という歴史の一大転換期にあたってこのような地位からも沖縄は脱却しなければなりません。

ラムズフェルド国防長官「自衛隊との作戦の調整の強化し日米体制をより強固なものにする」

復帰10年のインタビューに答える屋良朝苗さん「建議書の中に、核もない本土並みの基地と言っても、やはり果たしてそうだろうかというところの疑惑があり、不安があり、不信があり、不満がある。復帰にあたっては、逐一こういうものに疑惑がないように解消してくれと強く訴えたつもりなんです」

政府が積み残した「負の遺産」。基地から次々と派生する事件・事故。背負い続けた負担は蓄積されてきました。

稲嶺知事「基地のない平和な島というのが県民全体の理想ですから」

西銘元知事「現地の強烈な反対がございますから、それを押し切ってまで」

大田知事「安保が重要だからといって沖縄のような弱いところに押し付けて。僕らには理解できません」

建議書作成に関わった金城睦弁護士は、県民が本当に平和な島を望むなら、復帰の時に描いた思いを抱き続けて主張することが大事だと話します。

金城弁護士「沖縄がずっと一貫して基地はなくせといってきていることに対して、日米両政府がこれを再編という形にしている。なくす方向ではちっともない。沖縄の人間は『復帰の原点』としてこの建議書を触れてみるということは大事なような感じもします」

こうしてみると、建議書で求めた内容と今が何も変わってないので、復帰のときの話なのか今の話なのかわからなくなります。騒音で苦しみ、事件・事故に怯え、アメリカ統治で苦悩する。34年、沖縄の状況は殆ど変わっていない。今の若い人の中には、なぜ5月15日に大勢の人が基地の周りを歩くんだろうと思っている人がいるかもしれませんが、34年前の今日、基地のない平和な島が実現するはずだった。この建議書にある思いが復帰の原点なのです。

あれから少しでもこの内容に政府が真摯に耳を傾けてくてれいたら、今回の最終報告のようなものは出てこなかったと思います。