2015年6月30日 18時40分

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 17歳の沖縄戦 ~父の記憶~

名護市にひっそりとたたずむ墓地。毎年、6月になると私の父はここを訪れます。

山田さん「きょうはお墓の掃除に来ました。 私は生き残って、辰夫君は17歳で亡くなって、これはもう、そういうことなんだよね。」

ここは17歳で戦死した父の親友のお墓です。2人は70年前、17歳で鉄血勤皇隊に入隊しました。

首里高校の前身、県立第一中学校。戦況が厳しくなると少年たちは射撃や陣地構築の訓練をさせられました。そして沖縄戦が始まると13歳から17歳で戦場の最前線に送り込まれました。

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写真の少年が父の友だち・宮城辰夫さんです。

山田さん「 総代、優等生、賞状をもらったのは辰夫。我々は卒業と同時に軍服を支給されて、すぐ兵隊にされた。」

雨のように降ってくる砲弾、重傷を負い、泣き叫ぶ兵士たち。辺り一面に無残に横たわる死体。そこは人間が、人間らしさを失っていく地獄でした。

山田さん「あっちこっちにウジ虫みたいに這っている兵隊が、俺みたいにヨーガリーヒサグァー(痩せた足)を捕まえて、助けてくれ、助けてくれって。」

6月18日は辰夫さんの命日。父は糸満市摩文仁を僧侶とともに訪ねました。この場所は辰夫さんと父が別れた場所です。

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山田さん「ここから私、辰夫君を抱えて、歩いて行って、何キロくらいから、大度というところまで行ったんだけど。」

辰夫さんの33年忌に父は追悼の記を寄せました。そこには2人の壮絶な別れが書かれています。

「両尻がむき出し、尾てい骨がはみ出て歩けない君を勤皇隊本部に帰すように誰に命令されたのか全くおぼえていないが。君は突然「母の所に連れて行ってくれ」と僕に頼んだね。」

山田さん「あのときはね、辰夫がお母さんの所に連れて行ってと言った時は、本当のところはお荷物だと思ったんですよ。辰夫が手榴弾をくれというものだから、手榴弾は一つ持っているんですよ。連れて帰るわけにはいかないし、お前悪いけど、私は手榴弾をやって、辰夫はここで亡くなったと思います。」

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「僕は頭上で炸裂する手榴弾の飛び散る音を聞きながら、君に最期の言葉をかけたように思える。「どうせ俺もあとでいくから」と。」

鉄血勤皇隊として出征した父の同級生80人のうち、55人が亡くなりました。「戦争だったんだから仕方がない」。そう自分に言い聞かせていた父がたまらない後悔と贖罪の念にかられたのは大学進学で上京したときのこと。その音色が歩いているときに聴こえてきたのだといいます。

山田さん「タラタララララララ。しかしなぜ私が5日前に出てきた沖縄は糞だらけの生活をしているのに、何で誰が戦争をしたんだと悔しくて、悔しくて。」

さらに沖縄の置かれている立場を突きつけられる出来事がありました。

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山田さん「求人募集が来て、日本の企業何百社もあるよ、大きな墨字があって、第三国人、括弧して琉球人含む、固くお断りしますと書いてあった。頭に来たね。あれは、私は国のために、天皇のためにといって銃をとって戦ってきたんだよ。友だちが死んだんだよ。」

戦後2度の結核、脳梗塞などを患いながらも父は生きました。自分の戦争体験を話そうと思ったのは87歳になり、自分たちが気がつかないうちに戦争に巻き込まれ、仲間の命や人間性を奪われてしまっていたことを私たちに知らせたいと思ったからだといいます。

山田さん「時の流れは、知らず知らずのうちにそういう風になっていく、戦争と言うものはそういうもの。一人一人が止めないと、大変なことになるということだけわかればいい。」

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