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140年前、台湾に漂着した宮古島民が地元の住民に殺害された、いわゆる牡丹社事件の慰霊祭がこのほど関係者が参列する中、地元で行われました。

台湾南部の屏東県車城郷。畑の真ん中にある大きな墓。明治政府によって建てられたこの墓の石碑には「大日本琉球藩民54名墓」の文字が刻まれています。

先月この琉球人墓で台湾側の主催による慰霊祭が行われました。慰霊祭は140年前に起きた牡丹社事件を検証するシンポジウムの一環として行われたもので、地元台湾や沖縄、日本本土から関係者や研究者らが参列しました。

台湾総統府・黄煌雄監察委員「140年後のきょう、お互いに理解し合って初めて平和の一歩を踏み出したことは、人類にとって有意義なことだと考えています」

屏東県牡丹郷。かつて日本側が高砂族と呼んでいた部族、パイワン族の村です。人口はおよそ2000人。伝統を重んじる誇り高い部族です。

村の中に牡丹社事件の顛末を記した壁画が描かれていました。1871年(明治4年)村にほど近い海岸に宮古島民66人が流れ着きました。首里王府に献上物を届けた帰り、悪天候で台湾まで流されたのです。上陸した宮古島民は牡丹郷に迷い込みますが、言葉が通じなかったことから、村びとに侵略者の偵察隊と誤解され、牡丹社と呼ばれる集落で54人が殺害されてしまいます。残り12人は平地に住む漢民族に助けられ、清国経由で翌年琉球に戻りました。

生存者から事件のことを聞いた明治政府は「日本国民である琉球人が殺害された」として1874年・(明治7年)、西郷隆盛の弟・従道率いる3600人余りの軍隊を牡丹郷に送りこみました。

沖縄大学教授・又吉盛清さん「この事件の明治政府の狙いは、琉球の国家統合、いわゆる琉球処分とそれを通じたアジアへの侵略。それ以外、何ものでもないです」

近代兵器を装備した西郷軍に対し、パイワン族は激しく抵抗しましたが、30人余りの犠牲者を出し、降伏しました。牡丹郷を制圧した明治政府は清国に対し、日本国民が殺害されたとして賠償金を要求します。軍事力で劣る清国は渋々これを承諾しました。

これにより明治政府は「琉球は日本国に属する」ということを清国にも認めさせたとして、1879年に琉球を沖縄県とし、日本に組み込みました。世に言う琉球処分です。その後の日清戦争で勝利した明治政府は台湾を手に入れ植民地とするなど、牡丹社事件を機にアジアへの覇権を広げていきました。

犠牲者の子孫・野原耕栄さん「小さいころから祖先の野原茶武の話は聞いている。色んな日本の政策とからめられきたということについては複雑な気持ちです」

牡丹小学校教諭・高加馨さん「私たちは以前に沖縄の方に和解の為に謝りに行った。でもそれに対して日本政府は台湾の原住民の方にまだ謝罪していません。できればいつか謝って欲しいと思います」

元牡丹郷長(村長)・華裕民さん「人類の和平に向かって、お互いの友愛と和平をがんばっていこう」

又吉さんは日中間の問題解決に向け、市民レベルの交流が重要になってくると指摘します。

又吉さん「尖閣列島なんかの問題も、生活圏を共にしている台湾・中国・沖縄の人たちの生活の問題としてきちっと解決していくという実績がない。平和と交流の実績、そういうのがきちんとあれば話し合いはスムーズにいく」

船をもって世界のかけ橋となることをうたっていた琉球。アジアの友好と平和に向け、今、沖縄が果たすべき役割は何なのか?牡丹社事件はそのことを私たちに伝えています。