先日お伝えした、那覇市の農連市場の最高齢100歳の店主「新垣キクさん」80年前の、はたちのキクさんの記憶を辿ると沖縄戦で生死を分けたものが何か見えてきました。
今月10日、100歳の誕生日を迎えた新垣キクさん那覇市にある農連市場の最高齢店主です。そんなキクさんに、お聞きしたいことがあるのです。
山城アナウンサー「キクさん、キクさんの沖縄戦聞かせてもらっていいですか?」
100年前の1925年11月10日、ペルーで生まれたキクさん。5歳のとき、父と暮らすために母をペルーに残し、知り合いとふたりで沖縄にやってきました。
新垣キクさん「父は校長先生だったから(私に)学問させるために沖縄に行かしたわけでも再婚した母がいて、人が産んだ子どもは育てないと言ってね」
6歳まで、親戚の家を転々とする生活を送ります。
新垣キクさん「学校も6ヵ年皆勤だったよ」
戦前は教師を夢見ていたというキクさん。19歳のとき、今帰仁出身で2歳年上の浩さんと結婚しました。その翌年、戦が始まったのです。
新垣キクさん「思い出すのは昭和20年3月23日に日本軍が島尻の方から(米軍が)上陸するかもしれないから、家族はやんばるへ移動させなさいと言われたから、うちらはいとこ15名で行った。今帰仁の方へ」
南部の島尻地区から、夫の実家がある今帰仁へ歩いて向かうことを決めたキクさんたち。その時、目にした日本軍が住民を移送するために用意したトラックには溢れんばかりの人がのっていたといいます。
新垣キクさん「人がたくさんのっていた、ぎゅうぎゅう。今の道は上等だけど戦前は石コロコロの道だから車も揺れる、中部かどこかで(車から)落ちて死ぬより自分の地域で死んだ方がいいと」
のちに、激戦地となった南部に残った人の多くは、命を失いました。南部に残るか、否か、生死を分けた選択のひとつだったと感じたといいます。
新垣キクさん「照明弾があがったら頑張って走ろうと言って、昼は隠れて夜は歩いて、反対だのに」「長男はやんばるで出産したんだけどね」
山城アナウンサー「今帰仁へ歩いて行った時はお腹に赤ちゃんがいたんですか?」
新垣キクさん「そう、赤ちゃんがいた」
キクさん、7ヶ月の赤ちゃんを身ごもりながら山中を歩き続けていたのです。
新垣キクさん「もうあるきかんてぃーしてから」「あとで私を探してください、先に行って」と言ったんだけれど、捨てては行かれないとゆっくり歩いて、でも一緒に頑張っていこうということで」
出発から4日後、今帰仁に到着しました。
新垣キクさん「外人の顔をみんな見たことないさ~ね、このアメリカ(米軍人)お腹見ているわけさ、私が眠っていたんだけど起きてきたから心配しないで眠りなさいと(言われた)」
沖縄で組織的な戦闘が集結した1945年6月23日に今帰仁にいたキクさんは、その3日後に長男を出産しました。
新垣キクさん「今帰仁に7年間いた。夫も軍隊から戻ってた」
豚を育てながら、家族で暮らしたキクさん。その後、那覇市長田に移り住み、33歳から農連市場で商売を始めます。
新垣キクさん「夫は野菜作り上手だった。(夫は)商売しても何しても私がやることは間違いないと言って信用していたわけ」
浩さんが野菜を作り、キクさんが売る。夫婦二人三脚で店を切り盛りしてきましたが、40年ほど前に浩さんは亡くなってしまいました。以降、ひとりで仕入れから販売まで行っています。
石川てんぷら店 島袋美枝子さん「市場の最初のころの話は聞いたことあるけど、戦争の話は聞いたことない」
Rakune 楽音 比嘉安江さん「苦しい話は一言もしないで(私が)小さい頃からいつも元気で変わらない、昔からおばあちゃんだった。みんなのおばあちゃんだった」
優しい笑顔は過酷な道を乗り越えてきた証。キクさんの心には、戦火を生き抜いた記憶が刻まれていました。
山城アナウンサー「沖縄戦で心に残っていることはありますか?」
新垣キクさん「(夫は)戦争に行って、終戦まで島尻にいたもんだから、みんな亡くなった人の上からみんな歩いて、戦争はいやですよ、やらないでください」
底抜けに明るいキクさんですが、戦時中親族のほとんどは南部に残って多くが亡くなったそうなんです。
キクさん、北部へ疎開する時の照明弾の明かりは攻撃とは思わず、自分たちを照らしてくれる光だと思って夜に歩みを進めたんだそうです。あの時は、何が正解で何が間違っているのか分からなかった、そんな中でも命を諦めず懸命に生きたと話してくださいました。














































