東日本大震災から今月11日で15年です。ふるさとをどう残すのか、被災地の今と葛藤を取材しました。
■震災乗り越えた“親子の絆”
乾いた打球音が宮城県気仙沼市の空に響きます。ここは街で唯一のバッティングセンター。
利用者
「大谷選手みたいになりたい」
営むのは千葉清英さん(56)。この場所は震災で残された父と子の約束から生まれました。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「『バッティングセンター作ってよ』、あの言葉がなければ多分、今の自分はなかったかな」
15年前の11日、気仙沼市の街を襲った巨大な津波。
千葉さんは妻と2人の娘、妻の両親ら7人の家族を失いました。助かったのは当時9歳の長男・瑛太君だけでした。
父と子、2人をつないだのが野球でした。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「岩手県にバッティングセンターがあった。打ち始めた時に汗だくになって無心で打ってる姿あった。突然、『これだ』と思った」
瑛太君も野球にのめり込みます。そして、ある日。
千葉瑛太君(当時12)
「半分ジョークで気仙沼に作ってよって言った」
父は、その言葉に背中を押されました。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「『やりたくてもできない仲間がいっぱいいるんだ』と衝撃を受けて『よしやろう』と」
そして、震災から3年後。「気仙沼フェニックス・バッティングセンター」が生まれました。
最初にバットを振ったのは瑛太君でした。
千葉瑛太君
「本当にすごいなと思います。ここを作ることによってたくさんの人にも会えたし、あの時あの一言を言って良かった」
打席には千葉さんのある思いが込められています。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「7打席。亡くなった家族の分の打席。7人なので7つの打席。家族がいたことを残したい」
グラウンドも遊び場も失われた街に子どもたちの日常が戻りました。
利用者
「アイスクリームもあるし。結構、楽しいところ」
「気兼ねなくバッティングできるところはない。ストレス発散にもなる貴重な場所」
■震災から15年 街のよりどころに
しかし、震災から15年。気仙沼市の街は別の問題に直面しています。
人口の減少です。震災後、約1万9000人が減りました。
30年以上在住の人(80代)
「(Q.震災後の子どもの数は?)全然いない、ほとんど子どもの声が聞こえない」
瑛太君が通っていた小学校も廃校になりました。
気仙沼育ちの人(66)
「見える景色が全然違う、空き家、シャッターばかり。空き地ばっかりでね」
子どもが減るなかで、バッティングセンターの経営も厳しくなりました。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「当初に比べると客数も減ってきている」
2年前、千葉さんは閉店も考えましたが…。
バッティングセンターを経営 千葉清英さん
「地元の野球少年が『やっぱり続けてほしい』。必要としてもらえるのであれば、頑張れるだけ頑張ってみようと」
街の子どもたちが千葉さんの心を動かしました。
10日、孫にせがまれて76歳の祖父が打席に。祖父がバットを振り、孫が見守ります。
祖父(76)
「なくてはならない場所。自分も楽しいし落ち着く、気持ちが。孫の成長も見られるし、いいなと思ってます」
父と子の約束から生まれた場所は、いつしか街のふるさとになっていました。
中学1年生の父親
「子ども達の日常を取り戻すために、逆に大切な場所だったかもしれない。結果、子ども達の夢につながってくるかもしれない」
震災から15年。24歳になった瑛太さんは今、東京で働いています。それでも、ふるさとを思わない日はありません。
千葉瑛太さん
「(バッティングセンターは)私と親父と、気仙沼をつないでくれているような場所。15年の自分の歩み、思い出を振り返る場所。必要としてくれている人がいたり、大事に思ってくれる人がいるのであれば、できる限りは、そこに力を注ぐ意味があるんじゃないかと思う」







































