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Qプラスリポートです。戦後、沖縄ではいわゆる「銃剣とブルドーザー」によってアメリカ軍に土地や農地が強制的に奪われました。その後土地の返還を求める「土地闘争」の原点となったのが伊江島でした。その伊江島から見えた、今の沖縄とは何なのでしょうか。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

先週土曜日、伊江島で行われた落成式。老朽化していた「団結道場」が修復されました。

謝花悦子さん「必至に考えたことは学習しなければいけないと、その必要さを知り戦後の生活の中で集まる場所がなく、そのために団結道場は作られました」

アメリカ軍との土地闘争のためには「学ぶこと」が重要だと、阿波根昌鴻さんらが、中心となり建てられ、沖縄の土地返運動「島ぐるみ闘争」の原点となった場所です。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

この式典に一人の女性が参加していました。報道写真家嬉野京子さんです。

この日、行われた学習会で講演した嬉野さんは沖縄と深いかかわりを持つきっかけともなったある事件について語りました。

道路に立つ数人のアメリカ兵。足元にはアメリカ軍のトラックに轢き殺された6歳の少女が横たわっています。1965年4月、祖国復帰運動の行進に参加したさいに遭遇しました。

持っていたカメラを向けようとしたその時、行進団の一人から、注意を受けたといいます。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

嬉野京子さん「これを撮ったら嬉野さんの命がないですというんですね。そう言われても私はこの現場を見っちゃったわけだから。だから撮らざるを得ないんです。取りたいんですって行進団の人に話したんです。命と引き換えでもこれを残さなきゃいけない現場なんです」

嬉野さんの写真「少女轢殺」はアメリカ軍統治下の沖縄の悲惨を世間に発信しました。この事件から2年後の1967年12月、嬉野さんは、団結道場の起工式の取材で伊江島を訪れます。

翌日、作業のため地元の農民6人が現場に集まっていると武装したアメリカ兵がやってきました。

嬉野京子さん「4人の憲兵隊がカービン銃を持って来たんだけど、それを後ろにグッと回して、それで、一人がこっちの腕、もう一人がこっちの腕、もう一人がこっちの足、もう一人がこっちの・・・4人でさトラックに放り込むのよ。おいおいおい人間ですよ。荷物じゃないんだぜって言いながらね」

今、当時の伊江島の土地闘争の歴史や阿波根さんの足跡を伝える様々な貴重な資料が公開され始めています。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

沖縄国際大学鳥山淳教授「この中に今回の陳情日記があります」

ことし2月発刊された「陳情日記」。阿波根さんら伊江島の人々の生の声が記されています。鳥山教授らが編集に携わりました。

編集した沖縄国際大学鳥山淳教授「今日に語り継がれてくるような歴史の一コマが実際どういう人たちによって担われていたのか」

「陳情日記」は1955年アメリカ軍が定めた立ち入り禁止区域内で畑を耕していたとして、取り締まるアメリカ兵とのやりとりで始まります。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

「陳情日記」より

「6月13日晴れ区民ここは私たちの土地だ。軍空軍の土地だ。区民誰と契約したか軍民政府と区民ここは民政府の土地か軍これには返答せず」

32人が逮捕され嘉手納基地で尋問を受けますが住民たちは、堂々と主張します。

「陳情日記」より

中尉「君たちは何のために今日の様なことをやったか」

収容者「生きんがために、祖先伝来からの受け継いだ土地だ血であり肉である。これは土地を守るためであるこの土地は子孫に譲らなければならない土地である」

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

このままでは、生活の糧となる土地が奪われてしまう。阿波根さんら伊江島の人々はこの窮状を知ってもらおうと、本島に出向き、多くの人に訴えたのがいわゆる「乞食行進」でした。

阿波根さん「え~みなさん、よく伊江島までおいでいただきましたありがとうございます。おれから反戦平和資料館について説明をさせていただきます」

去年見つかった阿波根昌鴻さんの肉声。阿波根さんが館長をつとめた伊江島の「わびあいの里」にある「反戦平和資料館」を案内する声です。今も多くの人に伊江島の歴史を伝えています。

去年12月に初めて訓練が確認されたアメリカ軍の最新鋭機、F35の訓練に反対する抗議集会が開かれていました。今なお、住民の苦悩は続いていました。

「陳情日記」より

「ここは私たちの土地だ」

土地闘争での粘り強い人々の歴史、訴えは今の沖縄にも届くメッセージです。

Qプラスリポート 伊江島「団結道場」の記憶

嬉野京子さん「非暴力で理不尽なことに人間として声をあげることの重要さというのをここ(団結道場)が発信しているんだと思う」

鳥山淳教授「1955年当時のことを考えると、おそらく沖縄でも少なからずの人たちが米軍が力ずくでやってくることに対して”歯向かいようがない”と感じていたんじゃないかと思うんですよね。自分たちが動いてもどうしようもないんだと。ところがその中で真謝の人たちあるいは(宜野湾市)伊佐浜の人たちが諦めずに当事者として声をあげたということが沖縄社会にとっても大きなインパクトがあったんじゃないかと思います」

当時の状況は、今の辺野古の問題にも通じるものを感じます。「私たちの土地だ」と諦めなった伊江島、阿波根さんたちの運動が今再び見直されています。