※ 著作権や肖像権などの都合により、全体または一部を配信できない場合があります。

頭に残る生々しい傷。やけどの痕。これは59年前、うるま市石川で発生したアメリカ軍機墜落事故の後、アメリカ軍が作成した医療報告書です。報告書からは、これまで知られていなかった事故の実相が見えてきました。

事故が起きたのは沖縄本土復帰前の1959年6月30日。嘉手納基地を飛び立った戦闘機が墜落し、宮森小学校に突っ込んだのです。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

児童11人を含む17人が死亡し、210人がケガをしました。医療報告書の中に、ある少年の姿がありました。当時小学2年だった新垣晃さんです。母のハルさんは、勤務先だったアメリカ軍基地内で一報を聞き、慌てて現場に向かいました。

母のハルさん「仕事だったんよ。ジェット機が宮森校に落ちていると。アメリカ人が言うから。あい、どうするかね。どこですかねと聞いたら、宮森校というから、大変なことになっていると。あっちこっち探していない。晃はどこに行ったか探して」

ハルさんが病院で対面したのはベッドに寝かされている痛ましい姿の我が子でした。晃さんは全身の45パーセントをやけどしていたのです。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

母のハルさん「髪の毛が全部焼けてよ、真っ赤にしていた。それを見て、どうしようもないさ。一緒にさ、ベッドに寝て。話したくない、これ」

世界的にも、過去にも類を見ない大惨事。アメリカ軍の資料には、多くの負傷者が重いやけどに苦しめられる中、事故からおよそ1年経ってようやく、アメリカ軍が本国や韓国、日本本土の軍医を呼び、本格的なやけど治療に乗り出したことが記されていました。

しかしそれは空軍司令官が沖縄県民の反米感情の高まりを警戒し、高等弁務官に手紙を書いたことがきっかけでした。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

「我々が気づくべき、より深刻な問題がある。半永久的に傷跡が残る被害者たちは、琉球列島におけるアメリカ軍統治の結果から被害が発生したというだろう」

晃さんは治療を続けながら、学校に通いました。事故から1年半後に作成された医療報告書にはやけどの痕は徐々に改善していて、1年か1年半後に再検査するが、手術の必要性はないだろうと記されていました。

陸上選手として活躍し、体育教師を目指して、大学進学も果たした晃さん。同級生の玉城欣也さんは、こんな会話を覚えています。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

玉城欣也さん「小学校5年生の時に、新聞配達をしているんですよ。お母さんのために、家計を助けるためにやっているんだと。やっていると言ったら、うんと言っていた。たまたまいいよったですよ。大変だったあの頃はと。母親が泣いているので忍びないと。自分のことよりも、母親のことを気にしていましたね。母親が泣いて大変だったと」

しかし親子が穏やかな生活を取り戻したのも束の間、晃さんは大学卒業目前にこの世を去りました。やけどの後遺症で汗がかけないため、腎臓に負担がかかっている。医師からそう告げられたといいます。最期のときも、一人残される母親のことを気にかけていました。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

母のハルさん「(Q.2人で話したの?)うぬが亡くなるというとき、なーひんちょうでーなしていたら、母ちゃんというから、そういうたよ。だからね。ちょうでーなちょうしむたんと言いよったけど。(Q.ハルさんを心配していたの?)とっても母ちゃん思やーだったよ」

石川・宮森630会の依頼でアメリカ軍の公文書を翻訳した琉球大学元教授の保坂廣志さんは、アメリカ軍による治療が被害者の立場に立ったものではなかったと指摘します。

米軍の陸軍病院としては、子どもたちを治療する予定はないのだとか、あるいは二度目に米国から専門の医者が来るんですけど、これでよくなったとか。

子どもたちは何回も何回も大人たちの都合で、病院側の都合によって医療の現場から排除されて、最後に出てきたものが、これ以上治療の必要はありませんという報告書だったわけです。

Qプラスリポート 宮森事故59年 医療報告書が示す事故の実相

晃さんに先立たれて44年以上。報告書の存在を話すと、自分の手元に置きたいと言いました。

母のハルさん「これ私にあげる?今甥っ子、姪っ子わからないけど、こんなしていたよ、晃はと」

あすで事故から59年。ジェット機事故は過去のことにはなっていません。