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沖縄が多くのものを失った沖縄戦。中には、学校にいけず、学ぶ機会を奪われた人たちがいます。先日、その人たちの証言が本になりました。そこにはどんな思いが込められているのでしょうか。那覇市樋川。ここに、夕方から始まる学び舎があります。

大嶺美代さん「口紅塗ってきたさ〜」

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午後6時、生徒たちが教室に集まってきました。この学び舎の「生徒」は、62歳から84歳。その多くは、70年前の沖縄戦により義務教育を受ける事が出来なかった人たちです。

70年前、およそ20万人が犠牲になった沖縄戦。

本土では終戦直後、義務教育を補う公立の夜間中学が開校しましたが、アメリカ軍の統治下にあった沖縄には、ありませんでした。県内で、初めて民間の学校が開校したのは、11年前、この「珊瑚舎スコーレ」でした。

そんな生徒の中に、ひとりの女性がいました。3年生の大嶺美代さん(82)です。この日の国語の授業は「走れメロス」の感想文の発表でした。

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大嶺美代さん「これを読んであなたは妹を大事にしているやさしいお兄さんだと思いました」

自分の思いを文字にして発表する。戦後、やりたくてもできなかったことのひとつです。

大嶺美代さん「みんな楽しい。全部。皆そばになって教えるし、先生方も丁寧に教えるからこんな文章も書けるわけ。みんなの前で読めるさあね」

沖縄戦当時、大嶺さんは、12歳。住んでいた那覇市国場も激しい攻撃を受け、家族と南部へ逃げる途中に15歳の兄が爆弾の破片を受け負傷。母が兄を、大嶺さんは3歳の弟を背負って戦地を逃げまどったといいます。

大嶺美代さん「焼けた日は兄さんが弾に当たって(負傷した)」

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これは、妹の富子さんが描いた戦時中の絵です。

大嶺美代さん「これ糸満の白銀堂のうえ。私はこれおんぶしているさ。弟おんぶしてるさ。こっちこどもが歩いていて、4、5歳ぐらいの男の子が歩いているとパンパンパンしていた。殺しよった。死によった。(アメリカ軍が)殺すのも見た。こっちで」

戦争に奪われた平穏な生活そして学ぶ機会。大嶺さんのような戦争体験者の証言をまとめた本が先日、出版されました。

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遠藤さん「代わりに誰かが聞き書きという形でも残していかなかったらこの方々の思い、背負ってきた時間は消えてしまう」

生徒たちのそれぞれ体験を遠藤さんが聞き取り、まとめました。卒業生を含め、58人の戦中戦後の体験です。

「子どもが大きくなると婦人会、PTAなどの活動が増えます。お手伝いをしたのですが、読み書きが出来ないので、人の後ろからついて行くしかないのです。いつも人の後ろに隠れているのです。心が痛いですよ」

「生活をしていて何が怖いって、字を書くことです。」

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必死に生きて来た戦後。文字が書けず苦悩したことや悔しかった思いがつづられています。大嶺さんの証言には、戦争で何もかも奪われ、生活に追われた当時の様子が綴られています。

「小学校に戻ったものの、紙や鉛筆もなく、まして教科書もなく、毎日掃除やら木材運びでした。中学校も少し行ったのですが、勉強はまったくしていません」

遠藤さん「やはり自分達の今まで背負ってきた歴史、時間を出来れば誰かにわかって頂きたい、誰かに手渡したいって気持ちが皆さんの中にもあったんだと思っています。戦後70年って一応区切りはそういう意味ではあるんでしょうけど、生徒達にとって私達にとって本当に戦争に終わりはない。」

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きょうもスコーレには、奪われた学びの時間を取り戻そうと、黒板に向う生徒たちの姿があります。その背中は、平和の大切さ、学ぶ幸せを語っています。

私達は、終戦とか戦後70年とか、という表現で、戦争のない時代を説明しようとすることがありますが、大嶺さんたちの姿を見ていると、戦争はその時だけでなく戦後もずっと人を苦しませるものだということを感じます。平和の重さを実感します。