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「戦後70年遠ざかる記憶近づく足音」戦後70年のことし、ソ連で抑留され死亡した日本人の名簿が公表されました。その中に満州で徴兵された1人の県出身者の名前がありました。父親がどこでいつ亡くなったのかを知った遺族の思いに迫りました。

戦後70年の今年、新聞に掲載された1つの記事。それは、厚生労働省が終戦後に、旧ソ連に抑留され収容所などで死亡した163人の身元を新たに特定。公表に至ったというものでした。

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新聞と同じころ、沖縄県公文書館で始まった常設展示「援護と戦後」そこに展示された1人の未帰還兵の死亡届。今帰仁村出身の「内間又三」さん。実はこの人こそ、新たに身元が特定された1人だったのです。

私たちは、この死亡届を元に内間さんの遺族を探し現在、那覇市に住むという息子さんに辿り着きました。

内間健市さん「これ北朝鮮と書いてあるからね死亡の1人。これと全然ちがうじゃないですか。これはソ連チタ州ということで。」

現在75歳になる、又三さんの長男、健市さん。第二次世界大戦がはじまった翌年1940年に今帰仁村で生まれました。

その頃、国は日本各地から農業従事者を「開拓団」として強制的に買収した満州への移住を推めていました。ここ沖縄からも恩納村、南風原町、そして今帰仁村から多くの家族が海を渡ります。

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内間健市さん「夏は農民、冬は冬眠、部屋の中は全部ペチカ(暖房器具)が入っている火をたいているんですよその生活は覚えていますが、それ以上のことは」

当時2歳の健市さんは家族と共に、今帰仁の集落ごと満州へ移住したといいます。肥沃な大地で農業を営んだという内間さん家族。しかし、戦況の悪化により、内間家にも召集令状が届きました。

内間健市さん「満州から招集され乗り物はないから馬車ですよ。その晩はうんと酒を飲んでペチカで歌を歌っていた」

幼いながらも、見送った父の背中を、今でもはっきり覚えているといいます。父、又三さんの死亡届には、昭和21、つまり終戦の翌年1946年8月15日に、ソ連チタ州で栄養失調により死亡と書かれていました。

戦後、援護法を受けるために遺族が作成した死亡届はほとんど正確な証拠がないまま記されてきました。

それが、今回ロシア側からの資料を照合した結果、死亡届よりも後の1947年1月9日に現在の北朝鮮である興南(フンナム)の収容所で伝染病である赤痢で死亡したと記されていました。

父と過ごしたわずかな時間。当時の記憶をたどるため、内間さんは同じ今帰仁村から同じ満州開拓団として移住した仲里稔さんの元を訪ねました。

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内間健市さん「こんにちははじめまして。よしはるの同級生」

戦後、ソ連軍に追われ引き揚げてきた人々が多く、満州開拓団の実態はあまり知られていません。仲里さんは当時、小学生でしたが、15年前、満州での暮らしを残そうと手記を書きました。

仲里稔さん「満州の事を書き残すかなと自分で思い出す限り10年かかりましたよ思いだしながら」

内間さん「こういう地図は初めてみた素晴らしい」

仲里さん「見て見てください」

内間さん「こっちが次男坊こっちの親父。」

仲里さん「うちはこっちです仲宗根です。」

秋山記者「やはり同じ地域に住んでいたんですね。」

内間健市さん「自分の母親は満州の事は何にも話してくれなかった」

内間さんは妹が2人いましたが、当時、伝染病で亡くしていて母親からは満州の話を聞くことはありませんでした。

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仲里稔さん「学校を収容所として今帰仁恩納村南風原の開拓民全部がそこで生活をして。」

仲里さんもまた、2人の弟が収容所で疫痢にかかり亡くなります。

仲里稔さん「結局病院もないし医者もいない。自己で直すしかない薬もないし。(Q.コレラとかチフスが流行って?)はい亡くなった方が多かった。」

父の最期を知った内間さんは「家族みんなで沖縄に帰りたかった」といいます。

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厚労省が今年、発表した抑留者1万723人の名簿。このうち個人が特定できているのはおよそ3000人。

戦後70年がたっても、最期を知らない多くの遺族が今も家族の生きた証をさがし続けています。

まさに、戦争から逃れる、平和な生活が送れるとして多くの国民が開拓団として満州に渡ったわけですが、それぞれに過酷な戦後を体験されているんですよね。

戦後70年経って初めて知る真実でしたが、内間さんはできれば遺骨が戻ってほしいとも話していました。