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戦後70年企画、きょうは「医療の復興」についてです。終戦を迎えた沖縄には医療体制の確立が急務となりました。

医者不足の時代に、救急医療体制づくりや医師の養成に携わった医師の思いを聞きました。

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 戦後の医療の復興

真栄城優夫医師「ここなんかは全部焼野原で。今でこそ建物がいっぱいあるけど、当時はここはテントの中から見ると、栄野比の坂が真っ白に石川の方にのびている坂が見えました。」

1945年、沖縄の戦後の医療は沖縄市胡屋から始まりました。アメリカ軍が各地から連れてきた戦争孤児や負傷者を空家やテント小屋に収容。医師も看護師も不足、器具も足りない状態でした。

真栄城医師「当時の医療は暗黒時代だった。例えば手術した後、おなかをあけて縫ったら、これを動かしたら治りが悪いと砂袋を置いて寝かしているのが普通。こんなのを正しくしていくのがわたし自身の夢でした」

軍医として外地に送られた沖縄の医師は20人が戦死。県の調べによると終戦直後、県内には医師が6人しかおらず、衛生兵を医師にする医介輔制度で医師不足を補ったといいます。

その頃、終戦を迎えハワイ諸島から帰還した負傷兵も同じ場所に収容されたため、患者は激増しました。その頃、真栄城さんは外科医を目指して九州大学医学部で学び、医師免許を取得。

戦後70年 遠ざかる記憶 近づく足音 戦後の医療の復興

卒業後、琉球政府から直ちに帰るようにと連絡を受け、愛楽園や軍病院で勤務しました。軍病院では、アメリカの医療に触れ、その質の高さに価値観が変わったと言います。

真栄城医師「専門医といったら一つの病気のことをしっていたら尊敬される。アメリカでは一つの病気を知っているだけでは尊敬されない。外科専門だと、頭のさきから足の先まで手術して、治療するところ全部知っていないとダメ」

1966年、沖縄中央病院は沖縄市胡屋から具志川市に移転し、名前も中部病院に変更。ハワイ大学と提携しての臨床研修も始まろうとしていました。真栄城さんは、その立ち上げに関わったアメリカ人の医師から若い医師の指導を命じられました。

真栄城医師「自分たちは研修医を怒ることができない。人種的な差によると思われる。おまえは同国人だからできるはずだからやってと。」

同時に琉球政府は医師不足を解消しようと、国費で学生を本土の大学に進学させましたが、環境の整った本土で経験を積みたいなどの理由で、沖縄に戻ってくる学生は4割ほどでした。

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真栄城さんは全国を周り、県出身者を中心に8人を集め1967年、ようやく臨床研修が走り出しました。中部病院での臨床研修医は今では49期。1000人を超える医師が研修を受け、救急医療では全国から注目される病院となりました。

真栄城医師「救急患者のたらいまわしが沖縄では考えられないこと。ベッドがなければつくればい」

真栄城さんは、アメリカで24時間365日救急医療に関わり、応急処置ではない医療を施すことを学びました。一期でも上の先輩が後輩の指導をするという「屋根がわら方式」の研修システムもつくり出しました。

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安次嶺医師「僕らは半世紀前からあれをやっている。中部で一番貧しい、医者もいない、ないないづくしの中で、私たちがやってきた医療というのは、今この進んだ日本で求められているんじゃないですか」

当時、貧困だった沖縄の医療事情に対応しようと、始まった研修システムは、時代を経て、全国から高い志を持った研修医を集めるようになり、沖縄から県外の医療まで進化をもたらし今へと繋がりました。

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真栄城医師「医療に携わった人全員の努力だと思う。一人の力ではできないし、行政に頼ってできるものでもない。医療に携わる人間がプロフェッションとして、専門の人間として互いに助け合いながら、常に努力を続けることだと思います」