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沖縄戦のおよそ5か月前、1944年の10月10日、初めての大規模な空襲が沖縄を襲いました。県内全体の死傷者は少なくとも1500人を越えたと言われるこの「10・10空襲」は、なぜ沖縄を標的としたのでしょうか。大矢記者のリポートです。

うるま市与那城。小高い丘の頂上に、生々しい爆撃の痕が残る建物がありました。71年前の10月10日の大空襲の朝、アメリカ軍の飛行機を最初に発見した監視所です。

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屋慶名地区の平和ガイドとして活動する長濱清信さん「飛行機編隊が10機くらいこの平安座崎と浜比嘉の間の海峡から飛んできたそうですよ。」

長濱清信(ながはませいしん)さんは、この地域の戦争体験者たちの聞き取り調査をしながら平和ガイドとして活動しています。「アメリカ軍来襲」の一報は、すぐさま軍に電話で伝えられましたが情報が活かされることはなかったといいます。

長濱清信さん「軍の方は民間の監視員が分かるかということで、取り合わなかったということですね。」

早朝6時40分から始まった県内全域への爆撃はおよそ9時間におよび、最も被害が大きかった那覇市では街のおよそ9割が焼き尽くされ、多くの死傷者が出ました。

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神谷依信さん「学校の準備としている時に、飛行機がものすごい爆音響かせて。飛行士も見えるくらいの近さで飛んでいますから。」

当時、16歳だった神谷依信さんです。神谷さんは、空襲で変わり果てた那覇の街に愕然としたといいます。

神谷依信さん「なんともいえない寂しい気持ちになりよったですよ。(Q何も残っていなかった?)焼野原で人ひとり通らないくらいの」

最も激しい空襲を受けた場所のひとつ。それが現在の那覇空港がある場所でした。

神谷依信さん「(Qちょうどこの一帯を小禄飛行場として造っていたんですか?)拡張工事でね、砂を運んでいたんです。」

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当時、ここには、軍の命令で集められた住民たちによって日本軍の航空基地が造られていました。学生だった神谷さんも建設作業に駆り出された一人でした。

沖縄戦が始まる5か月も前に、なぜ、沖縄が標的になったのか。県公文書館には、この空襲に関するアメリカ軍の作戦報告書が保管されています。

「沖縄への空襲で、日本軍の基地に最大のダメージを与える」

当時、フィリピンへの上陸作戦を控えていたアメリカ軍は、まず、日本軍の飛行場や港などがある沖縄を標的としたのです。沖縄県史の編集を担当する大城将保さんは、沖縄の日本軍、第三十二軍は、この空襲を全く予測できていなかったと指摘します。

大城将保さん「この1日だけの大空襲のお蔭で沖縄の一番弱いところを突かれて、その後はいくら足掻いても、もがいてもとてもアメリカ軍に対抗できるような力はなかったというのがね、ある意味では沖縄戦の悲劇の始まりだったと思いますね。この十十空襲は。」

さらに、この空襲は、沖縄の人たちに対する「疑惑」を生むきっかけになったといいます。

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大城将保さん「十十空襲で沖縄がやられたのは、沖縄の連中が裏切ったからだということになって、それからはスパイ取締が非常に厳しくなって。」

当時、軍の秘密は絶対に漏らさないよう、厳しい法律が敷かれていました。明治時代につくられたこの「軍機保護法」では、外国のために行動する者に情報を漏洩した場合、死刑にするとされていました。

軍の秘密、飛行場建設に関わった神谷さんは、空襲のあとまわりの人たちの様子が変わっていったといいます。

神谷依信さん「(十十空襲後)戦況がどうこうという話は、ほとんど黙って、やる人はいなかったんじゃないですか?(Qどうしてですか?)だって、こんな怖い目に合っているんだから、沈黙。もう押し黙った方が利口だと。」

その後、地上戦への道を一直戦に進んで行った沖縄。神谷さんは、あの空襲は戦争の教訓を今に伝ていると感じています。

神谷依信さん「基地があれば、当然攻撃されるのは当たり前と頭にありますから、基地は、やっぱしだめですよ。基地のあるところにしか戦は仕掛けていきませんから。」