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戦後70年企画です。終戦の日の8月15日、一冊の本が出版されました。「知られざるユナッパチク壕〜あのとき地の底で何が起きたのか?〜」著者は沖縄戦トラウマに悩まされながらも書き記ししました。70年が経たないと語れなかった思いを取材しました。

戦後70年の終戦の日。自宅で静かに手を合わせ、祈りをささげる女性がいました。並里千枝子さん。彼女は沖縄戦トラウマの症状に悩まされる体験者の一人。今年、自身の戦争体験を本にしました。

並里千枝子さん「沖縄はあまりにも凄い戦争でしたので、こういうことは二度と起こしてもらいたくない、お守りくださいってお祈りしました。」

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並里さんのふるさとは伊江島。70年前、壮絶な地上戦が展開され住民の半分にあたる1500人が亡くなりました。3年前、島に里帰りした並里さんは、偶然その場所を見つけました。

並里千枝子さん「私達は、ここから入りました。不思議不思議な感じがしますね。ここだよと知らせている感じがしますね。」

ひまわりが咲いている辺りには大きな地下壕が造られていました。逃げ場を失い、追い詰められた住民およそ80人がそこで日本軍から渡された手りゅう弾を爆発させ命を断ちました。

「即死できず苦しむ者もいて、地獄でもがくような、恐ろしい泣き声が耳に刺さった。「助けてくれぇ、助けてくれぇ」深い深い地底の闇の中、地獄絵図という言葉では通用しない惨状であった。」

しかし並里さんを苦しめたのはそれだけではありませんでした。わずか6か月で亡くなった弟・清隆ちゃんのことです。壕の中で泣きやまなかった清隆ちゃんを日本兵は殺すよう命じました。

子どもが泣き止まないとアメリカ軍に見つかり他の人に迷惑をかけてしまう。追い詰められた並里さんの母は、その顔を出ないお乳に強く押しつけたのです。弟は間もなく動かなくなりました。

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並里千枝子さん「自分が大きくなり次第、そのことがよみがえってくるんですよ私も年齢とともに、心も成長していきますよね。あの時どうだったか、清隆がどうだったのかと考えるとたまらないんですね。」

50代後半になって壮絶な体験は並里さんの心を知らないうちに蝕んでいました。日常のふとした瞬間に、壕の中で見た恐ろしい光景がよみがえりトラウマに悩まされるようになったのです。

當山先生「最近、2週間、明るい、楽しい気分で過ごした。いつもですか?ほとんどいつも?」

並里千枝子さん「何かのはずみにパッと戦争の頃の記憶がぱっとくるんですよ。とても複雑ですよ。言葉では言えませんよ。絶対に言えない、絶対に。」

そんな並里さんが、手記を書き始めたのは3年前のことです。戦争のことを思いだすだけで下痢や嘔吐を繰り返し、何度も筆を止めたくなりましたが、強い思いで書き続けました。

並里千枝子さん「私は使命だと思います、おぼろげながらも強く思いましたよ。」

あの深い壕の中での体験はとても辛いこと。しかしその体験を客観的に見つめることは並里さんにとって必要だったのです。

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當山先生「書く、整理することで彼女も落ち着いたんだと思います。色々な形で読んだり、書いたりする中で、自分自身を見つめ直すというか、意味づけなさっていますよね。」

並里千枝子さん「随分その感情が柔らかなになっています。何かオブラードがかったように。苦しさが薄らいでいます。」

當山先生「ほんとお疲れ様でした。」

並里千枝子さん「皆さんの力がないとね。色々な力で書けたのだと思います。」

終戦の日に出版された並里さんの手記。彼女はこう締めくくっています。

「当時9歳だった少女の小さな体験ではあるが、戦争という悪夢を二度と繰り返さないための布石となること祈り筆をおく。」

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並里千枝子さん「世の中がちょっと戦争起こす日々たつにつれて戦争を起こしそうな雰囲気ですよね。そういう人が読んでくれたらなって思うんですけどね。」

70年経たないと語れなかった今だからこそ語れるようになった並里さんの戦争体験。今度はそれを私たちが受け止めどうつないでいくか並里さんの本が問いかけていますアトコメ

中川「9歳の子どもが目にした戦争は、感受性が強い時期に体験したからなのかとても表現が生々しいですね。」

比嘉「この70年前の事実を私たちは、もっと謙虚に学び繋いでいきたいと思います。」