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事故から10年となった沖縄国際大学です。当時、事故現場はアメリカ軍により封鎖され、民間地でありながら私たちマスコミはもちろん、警察も、消防も立ち入ることが出来ない異常事態となりました。あの日、私たちQABのカメラは何を捉えたのか。振り返ります。

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今から10年前、2004年8月13日。アメリカ軍普天間基地を飛び立った大型輸送ヘリCH53が、宜野湾市の沖縄国際大学の敷地内に墜落し炎上しました。

QAB報道部に事故の一報が飛び込んだのは、事故直後だった。

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賀数報道制作局長「第一報は視聴者からの電話でした。『沖国大に何かが落ちたらしい。爆発音があった』と。」

当時、報道のデスクだった賀数は別の取材に出ていた記者とカメラを、沖国大に向かわせる。

ヘリ墜落からおよそ10分後。最初に現場に到着したのは宜野湾市役所で取材中だった笠間カメラマンだった。

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笠間カメラマン「パイロットかな~」

事故から35分後、墜落の第一報が全国に伝えられた。

午後3時過ぎ、金武町から駆け付けた謝花記者らクルーが取材を開始。大学の中に入ろうとするが、現場一帯は、アメリカ軍にっよって規制線が張られていた。謝花は、規制線の外で取材を試みる。しかし・・・

謝花記者(当時)「(取材カメラに邪魔する米兵に対し)なぜ?」

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謝花「自分達の仕事としてやろうとしていることが理由も分からないのに、邪魔されようとしているというのがね、どういう権利があってそういうことをやるんだと。」

事故発生から1時間、大学構内には不安の表情を浮かべる学生や職員の姿が。

事故を起こした普天間基地所属の大型輸送強襲ヘリCH53Dは、墜落現場からおよそ400メートル離れた我如古公民館上空で、尾翼の部分を落下、バランスを失い、操縦不能となったまま、沖国大の1号館に接触、炎上した。

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事故原因は、「整備ミス」とされている。住宅が密集する現場一帯に、バラバラになったヘリ部品が飛び散った

部品の一部は民家の窓を割り、ふすまを突き破った。そこにはつい数分前まで生後6か月の男の子が昼寝をしていたが、墜落するヘリの影と音に気付いた母が連れ出し、奇跡的に無事だった。

比嘉記者(当時)「アメリカ軍普天間飛行場に隣接する大学の構内で事故は起こりました。民間地のど真ん中です。白い校舎の側面が真っ黒に焦げています」

同じ頃、ヘリが衝突した1号館の中に笠間カメラマンらがいた。

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実近記者(当時)「ヘリコプターは校舎に接触して激しく炎上しました。火はこのように校舎の中にまで及んでいます。このような手元の鍵も火の勢いでしょうか全く動きません。」

実近「下から米軍関係者が先ほどから『出ていけ、出て行け』と仕切りに叫んでいます。」

実近「ヘリコプターの残骸が見えます。非常に大きなヘリコプターです。大きな残骸が横たわっています。」

実近「米軍の関係者は激しく撮影を拒否します。校舎の外に連れ出されます。これ以上の撮影は、不可能です。」

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笠間「助手か記者にテープを渡して、(米兵が)テープ、テープ出せと言われていたけど、(カメラをあけて)開けたらもうない。ノー、ノー、テープ、ノーと言いながら」

夕方の全国ニュースでも伝えられた事故だったが、事故直後は東京の反応は鈍かったと、当時デスクだった嘉数は振り返る。

賀数「普天間基地の米軍ヘリが落ちたという時点で、(全国ニュース)トップで扱ってほしい。我々としては通常の感覚だったが、その日に巨人軍の渡辺オーナーの辞任、アテネオリンピックの開幕と。(墜落のニュースが)後ろの方に追いやられたことは不満ですよね。」

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住宅街の中にも兵士たちが入り、規制線をひいていた。同じころ、住宅街の中でも我が物顔で、アメリカ兵らが規制線を引いていた。

山城博二さん「ここは基地じゃないんだよ!バカたれ!あけなさい!」

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10年たったいまも、この大学に隣接する広大な普天間基地は動かず、日米両政府はその移設先として辺野古に基地を作ろうとしています。

しかし、この場所に立ち当時を思い起こすと、基地はどこにあっても危険なものであり、また同じような事故がいつ起きてもおかしくない状態が今も続いているという恐ろしさを感じます。