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黙認耕作地の朝。その微妙な存在を象徴するように日米両国の国歌で一日が始まります。県道から基地のフェンスに向かって細い道を入っていくと豊かな自然に囲まれた広大な農地が広がっていました。

アメリカ軍の提供区域内にあって住民たちの耕作が認められてきた「黙認耕作地」。戦中戦後アメリカ軍によって銃剣とブルドーザーで土地を取られた人たちが生きる糧を得るためフェンスの内外で耕作を始めました。耕作者は地主の場合もあれば、地主以外の人が使っていることも。戦後70年近くが経つ中で、そこは実りの大地になっていました。

耕作者は「先代の方が亡くなって、二代目は継がないということで、やってみたらどうかと声をかけられてマンゴー、バナナ、パパイヤとか色々な物を作っています。地べたに生えるものはほとんど生産していると言っても過言ではない。」と話します。

地主ですか?という質問に「地主ではない地主は賃借料をもらっているから文句を言いに来ないし、誰が地主かわからないから。」と話します。

沖縄市議会議員で畜産農家の池原秀明さんもアメリカ軍に土地を強制接収された地主の一人でした。池原さんの場合、1982年にその土地は返還されましたが、今でも黙認耕作地で農業を営む人たちの世話人的な存在となっています。池原さんは今年1月、ある異変に気が付きました。地区のあちこちに設置された看板。沖縄防衛局が土地の使用状況などについて調査の協力を呼び掛けるものでした。

池原秀明さん「調査の目的は何か質問したら、こちらについては不法投棄がたくさんあるゴミ山になっていると。フリーマーケットで道路通行妨害が起きている苦情があるので適正管理してほしいと要請があったと。」

しかし調査には別の目的があることがわかりました。去年4月、日米両政府が合意したアメリカ軍統合計画。嘉手納基地より南のおよそ1000ヘクタールの土地を返還するというものですが、それは県内の別の場所への移転を前提としたものでした。

牧港補給地区の移転先とされた沖縄市。計画では黙認耕作地の立ち退きが予定されていたのです。先月、衆議院安全保障委員会で防衛省はあっさりその事実を認めました。

防衛省・山内正和地方協力局長「黙認耕作地と重なっている場合には、移設先の環境整備として、黙認耕作地の廃止が必要となります。」

実はこの計画は5年も前から検討されていたことがわかりました。アメリカ軍が2009年に作成したとみられる計画書。この地区に食堂や売店を始め、かつて劣化ウラン弾を流出したとして問題になった軍事物資の処分や廃棄などを行う国防再利用売却事務所・DRMOなどが移されることになっていたのです。

池原秀明さん「一年前に撤去通告を出しますと。一年以内に収穫物を終えたら、それで終わりでしょうと彼らからすれば改めて土地を収用する必要がない。国からすればやりやすい場所、黙認耕作地を使っている人たちからすると自分たちの生業がつみとられる。」

農家の中には、牛やヤギなどを飼育している人もいます。

耕作者は「困ったの一言じゃないかと思いますよ。この牛はどこに移動します?なかなか大変だなと思います。」

弾薬庫に隣接しているこの地域では戦後も様々な事件事故に見舞われました。1969年には毒ガスが漏れる事件が。1994年にはF15戦闘機が畑の真ん中に墜落する事故も。しかしそれでも、人々はこの土地を離れませんでした。

池原秀明さん「黙認耕作地そのものは、自分たちの土地が自分たちで使えない、米軍も使っていない、荒れ放題の通りに戦前の農地を開墾して、農地にして、60年近くも営農を続けているわけですよ。今までは基地機能は無かったのに、ここに機能を移してくるわけだから、新基地建設と何ら変わらない感じだと思う。」

戦争と基地の存在を象徴する「黙認耕作地」。大規模な基地再編の影で揺れています。