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きょうは沖縄の本土復帰から41年です。40年の節目であった去年から振り返ると、去年10月のオスプレイ配備があり、ことし3月には辺野古の埋め立て申請があり、そして先月28日には、政府主催の「主権回復」式典が開かれ沖縄では強い反発の声があがるなど、国民の主権というものはなんなのか、と考えさせられることが次々と起こりました。

そんな中「今こそ5月15日を問うべきだ」と訴える男性がいます。復帰を実現した屋良朝苗初代沖縄県知事の側近、石川元平さんに思いを聞きました。

41年前の今日、アメリカ軍の施政権下から日本本土に復帰した沖縄。そこには祝賀ムードとはほど遠い光景がありました。「日本に復帰すれば、アメリカ軍の基地はなくなる」と信じてきた沖縄の思いは砕かれ、怒りに満ちていました。

苦しみの渦中にいたのが、復帰運動の先頭に立った、当時の屋良朝苗行政主席、沖縄県の初代知事です。その背中を支えた、石川元平さん。当時、沖縄教職委員会で屋良さんの秘書を務めていました。

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石川さん「勝ち取った復帰だったけれども、県民の願った復帰にはならなかった。」

那覇市で開かれた復帰を考えるシンポジウムで、石川さんは当時抱いていた復帰への思いを語りました。

石川さん「いわゆる米軍の支配のあの沖縄の状況。暗闇と同じだという捉え方をしたんですね。ですから、自分たちが目標に向かって進むためには、夜走らせる車がヘッドライトが必要なように、一条の光がなくちゃならない。」

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沖縄の未来を照らす光。その願いを込め、本土復帰前の1958年教育者たちが中心となって「教育基本法」を作りました。アメリカ軍政権下にあって、日本人としての教育が出来ないなか、この基本法は沖縄の子どもたちを「日本国民」として教育すると定めたのです。

「日本国民」という言葉にどんな思いを込めたのでしょうか。復帰運動の先頭に立った若き日の石川さんらは当時、ここ那覇市の教育会館で、沖縄の教育を模索する日々を過ごしていました。

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石川さん「施政権もっていた米国は教育など優先じゃないんですよね。いわゆる日本教育を嫌い、接触を嫌い、したがって、教育復興のための金を注ぎ込むこともしませんでした。」

無償の義務教育を約束した日本国憲法の蚊帳の外に置かれた沖縄。復帰前の教育環境は、厳しいものでした。あまりに粗末な校舎。学校の備品は本土から送られてくる寄付が頼みの綱。子どもたちにどんな教育をするべきか定めた法律すらありませんでした。

石川さん「本音においては、(本土は)憲法教育基本体制の中で、民主教育、平和教育がうらやましいほどに進んでいる。」

しかし沖縄では1959年、小学校へアメリカ軍の戦闘機が墜落。戦争が終わったにも拘らず、アメリカ軍の事件事故に子どもたちが巻き込まれ続けていました。

石川さん「永山由美子ちゃんという、当時石川市の6歳になる幼児が嘉手納の空軍軍曹に拉致強姦されて、死体は、西側の嘉手納の軍用地内の地理捨て場に遺棄をされた、と。」

石川さん「沖縄の状況をみると、あまりにも格差、落差ですよ。空白ですよ。とにかく筆舌に尽くせんくらいの焦りと、また、復帰に対する強い思いが重なっていきましたよ。」

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「日本国民として」の教育。石川さんや屋良さんたちは、日本国憲法で守られている国民としての尊厳を沖縄の子どもたちに与えるためでした。

屋良さん回顧録「アメリカ側は『教育法を認めたらどうなるか』と聞いた。私は『認めないと全組織を上げて抵抗する』と答えた。この制定は、きょうまでの運動の中で、最も嬉しい出来事である。」

本土復帰に向けて動き出した沖縄。教育者たちが先頭に立ち、占領支配に対する怒りと抵抗のシンボルとして掲げた日の丸は全土に広まっていきました。しかし、復帰が近づくにつれて明らかになった、アメリカ軍基地の自由使用。日の丸は、裏切りの象徴として、捨て去られていきます。

基地のない沖縄を求め、裏切られた復帰から41年。いまも沖縄に基地は残されたままです。

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石川さん「なぜ515があるのか。みんなそれぞれ叶わなかった復帰のためです。ずっと騙され72年返還が欺瞞的な返還で、核は隠されて、基地は自由使用という。二度と国家権力の手段として、物として、沖縄が使われてはいけないと。日本の主権とは、決して主権国家じゃないし、あるいは、完全独立国家とも言えないことを沖縄の我々はもちろん、全国に発信していく機会にしなきゃならんじゃないでしょうか。この5月15日をね。」