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今日はこちらの写真をご覧ください。56年前の羽地内海。奥に見えるのは屋我地島で、左側が湧川、真ん中に見えるのがヤガンヌ島。沖縄の塩作りの発祥の地とも言われ、このように50年前までは入浜式塩田の製法で塩が作られていました。歴史的な遺産として今でも残る塩田は人々にとっても大切な場所でした

今帰仁村歴史文化センター・仲原弘哲館長「ここは羽地内海で、この石垣が塩田の跡です。ここから向こうの方に塩田が続いていく」

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今でもその面影が残っている今帰仁村湧川の海岸。56年前に撮影された風景には、塩田の石垣がまっすぐにのびている様子を見る事ができます。

ここ羽地内海は沖縄の塩作り発祥の地とも言われ、1960年頃まで湧川、屋我地では塩づくりが盛んに行われていました。学校が終わると子どもたちも手伝い、家族総出での塩作りです。

仲原館長「島に4櫃、海岸沿いに22櫃。26櫃ぐらいあった」

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干潮時に渡れるヤガンナ島には塩田跡がほぼ当時のまま残っています。

仲原館長「塩作りの技術も発達して進んでいるけど、そこで学ぶというか、あの時代の塩作りを通しながら一つの時代を見て行けたら、非常にいい場所かなと思います」

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今帰仁村歴史文化センターの館長を務める仲原さん。25年間、塩田と湧川の歩みについても調査しています。

現在の湧川地区は首里王府によって1738年に新設された地域で、これまであったムラが移動する政策的ムラ移動のあった歴史的な場所ででもあると言います。

肉体労働である塩作りは、那覇などから仕事を求め移住してきた人たちが主に行っていました。

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仲原館長「ここの塩作りは、時代的に都会で仕事ができない人たちが寄留してきて、村の中で田畑を与えられず、海岸を使って塩作りをする、そういう意味で過酷な仕事だったと思う」

湧川地内には我部村があった頃の我部のウタキやスヤーのウタキがあり、今でも地域の人々が訪れ、塩作りが生活の一部だったことが伺えます。

仲原館長「それを残すという、そういう意味では自分たちがそれで生活して生きてきたとういう証として、将来へつなげたい」

今でも昔と変わらない美しさを見せる羽地内海。ここは秘められた歴史をひもとく手がかりを与えてくれる場所でもあります。

仲原館長「かつて先人たちが、そういう生活のあった時代を再現できる今、自分たちが便利だから過去はいいじゃなくて、そこの時代に生きる心を作りたい」

戦後もいち早く塩田を復興させ沖縄の料理に欠かせない豚料理、スーチカーなどに使う塩も読谷まで売りに行ったそうです。今帰仁村文化センターでは湧川の塩田跡や歩みなどの勉強会も定期的に行っています。

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