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4月28日を「主権回復の日」として記念式典を開催しようという政府に対し、県内では強い反発の声があがっています。日本の施政権から切り離された沖縄の「屈辱の日」。1971年、復帰を前に「4・28行進」が実施されました。行進団の団長を務めた男性に、当時から今にいたる思いを聴きました。

嘉陽宗儀さん。祖国復帰協議会の4・28行進の最後の団長を務めました。

コザ、現在の沖縄市出身の嘉陽さんは復帰前、愛知県の高校の補助教員をへて沖縄に戻り、高校で多くの生徒を教えました。現在は県議会議員として基地問題を始め、多くの課題に取り組んでいます。

その嘉陽さんは教員時代、具志川の昆布地域でアメリカ軍が土地を強制的に接収しようとしたことに反対する闘争にかかわります。

嘉陽宗儀さん「昼間は授業をして、夜は昆布の闘争小屋をつくり、そこでみんなで、強制接収、ブルドーザーを入れてくるのを阻止しないといけないと、強制接収に反対して泊まり込み闘争をしていました。(米軍が)テント小屋に向かって石を投げつけてくる。最もひどかったのはガソリンをかけて燃やす。火までつけられて。」

嘉陽さんは高校の教職員組合、高教組の一員としてあらゆる復帰闘争に参加しました。復帰が1972年に決まる前の71年、高教組の政経部長だった嘉陽さんは復帰協の4・28行進の東コースの団長として大きな役割を担います。

東コースは国頭村の辺戸岬を出発。15日間かけて本島東海岸を南下。高江や辺野古と行進し、糸満の喜屋武岬をへて、総決起大会が開かれる那覇の与儀公園まで行進団を引っ張り続けました。

嘉陽宗儀さん「公民館で熱烈な歓迎で、食事は持ってくるし、いろいろなもの全部。高校生向けの話も、一般の人にももったく同じ話じゃダメでしょう。中身は同じでも。それぞれに応じて、相手が納得できる話が一番苦労しました。普通通り行進出来ないんですよ。最後、夕方は。あとは手で(足を)引っ張って前に歩くとかね。」

4・28は、沖縄では日本の施政権から切り離された日として刻み込まれている。嘉陽さんは復帰闘争の原点は4・28だと話します。

嘉陽宗儀さん「思いというのは県民の苦しみですよ。原点は。生活が出来ない、差別されている、人権を踏みにじられた。これみんな相通じる。この人たちの思いが本当に復帰行進の方にかかっているなと。」

そして安倍総理の主権回復の日式典。

嘉陽宗儀さん「今、苦しみが取り除かれていないにもかかわらず、4・28記念式典というのはとんでもない。我々の苦しみどうしているんだ。今も続いているじゃないかと。」

嘉陽さんにとって4・28とは?

嘉陽宗儀さん「私にとっての4・28というのは、本当に沖縄県民が人間らしい暮らしをしていけるような世の中にする。そのために青春をかけて復帰闘争をしてきたわけです。」

去年、政権に返り咲いた自民党。安倍総理の主権回復の日の式典は自民党沖縄県連にとっても唐突な出来事だったという。翁長政俊会長は県連幹部と16、17日に官房長官や石破幹事長と面談し、県民感情に配慮するよう求めました。

翁長政俊自民党県連会長「(官房長官は)特に沖縄に置いては、この日が屈辱の日というような捉え方もされていることも知っておりまして、総理がその日にはメッセージとして沖縄への配慮というものを取り上げてまいると。」

式典について翁長会長は、沖縄と東京の温度差を感じると話します。

翁長政俊県連会長「占領軍からの独立がさなれたことは事実だと思います。これは歴史の事実として私は理解できます。しかしながら、沖縄や奄美や小笠原が切り離されて、いわゆる外国に施政権をゆだねたままで独立したということについては、大変、私は違和感に思うし、式典として取り上げて、ことさら祝うということには、大変大きな違和感を感じていることだけは事実です。」

歴史の事実、県民感情に保守も革新もないと、翁長会長は話し、政府の姿勢を注意深く見ていくことにしています。