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藤川佐代子さん「自分の土地を米軍用地として使用させることをやめることにしました。」

今年9月、会見を開き、こう表明したのは、藤川佐代子さん。彼女は名護市辺野古の軍用地主としては初めて土地の契約更新を拒否しました。

沖縄が日本本土に復帰して40年の節目に当たる今年。日本政府がアメリカ軍に提供するため、最長20年の期限で地主と賃貸借契約を結んだ土地は更新の時期を迎えました。しかし、16の施設で107人が新たに契約を拒否しています。

藤川さんが土地の契約拒否に踏み切ったのは、辺野古で新たな基地建設計画が持ち上がっていることに危機感を持ったからでした。

藤川さん「事件事故とか、あれから、婦女暴行事件も起きたり、色々なことが起きている。ここにできたら、もっと悲惨なことが起きる可能性が、普天間の周りで起きることが、このままここに移るだけだと。」

藤川さんは復帰前の1969年、高校卒業を機に集団就職で神奈川県に行き、現在もそこで生活しています。地元を離れているからこそ、このような重大な決心ができたのではないかと語ります。

藤川さん「地元のプレッシャーを交わしている部分もありますから。もしここに住んでいて、プレッシャーを全部受けながらやったら、物すごい大変で、最初から、それに押し潰されていたかもしれないんですが。」

30年ほど前に、父親から相続した土地は3000平方メートル。フェンスの向こうにある土地がどんな風に使われているのかはわかりません。土地代は年間でおよそ60万円と決して少なくはありませんが、それを失ってでも守るべきものがあると考えています。

藤川さん「年をとって収入を無くして、仕事も無くしてという方は頼らざるを得ない、基地の賃料に頼らざるを得ないという、そういうとても矛盾した気持ちだと思うんですけど。命の問題として考えたらやっぱり、当てにするようなお金として考えていくのがちょっと待てよと、そういう気持ちになってきましたね。」

一方、区民をあげて土地の契約を拒否している地域があります。キャンプハンセンに隣接する宜野座村の城原区。アメリカ軍の演習場へとつながる村道の一部が、区が持っている土地です。区民たちが土地を貸すことを拒んだのはある事件がきっかけでした。

宜野座村城原区 山城昌慶 前区長「上の方から米軍の大型トラックが来て、この道路から、子どもが自転車に乗って来てそこで跳ねられているという形になっている。」

こちらの道路では17年前、アメリカ軍のトラックが6歳の児童を跳ねて死なせるという事故が起きています。

元々、この道は住民たちの生活道路にもなっていて、事故は「この狭い道路を軍用車両が使用するのは危険だからやめてほしい」と住民たちが訴えていた矢先の出来事でした。

実は大通りからアメリカ軍の演習場につながる道は別にもう一本あり、事故の後、アメリカ軍は使用を避けるよう看板を設置しています。それなのに、なぜ日本政府が再びこの土地を強制的に借りてアメリカ軍に提供しようとするのか、区民たちは矛盾を感じています。

山城前区長「同じ場所に行くのに二本必要かと。一本あれば十分だと。一本の土地の軍用地料は税金で払っている。東北で復興するために一生懸命やっている。向こうに使ってくれと。」

アメリカ軍用地の強制使用手続きに関する公開審理の日、政府を代表する防衛局と地主が、それぞれの意見を述べました。

沖縄防衛局の説明「駐留軍の活動の基盤となる施設及び区域を円滑かつ、安定的に提供することは我が国の条約上の義務であります。」

地主「復帰40年、この長い間私たちの借地料はタバコ一箱分にも満たない228円で使用されています。」

金武町並里区 与那城直也 区長「オスプレイが配備されて一ヶ月になりますが、昼夜問わず、深夜までの演習は区民に相当の被害があります。返還していただきたいと思います。」

そして藤川さんも基地建設計画に翻弄される故郷の苦しみを訴えました。

藤川さん「2000年の代替基地の候補地とされたときから、人口1000人余りのさびれた村は、賛成派と反対派に対立し、村の空気は刺々しいものになってきました。人のきずなも切れていきました。日本中日本国内で基地はいらないと言って通らないのは沖縄だけです。」

沖縄が本土に復帰して40年。土地の契約を拒否した人々の言葉からは、沖縄が抱え続けている、苦しみが浮き彫りになっています。