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師範学校校歌。おとといの慰霊の日。309人が刻銘されている沖縄師範健児の塔の前には今年も遺族や同窓生が集まりました。その中には、今年特別な気持ちで足を運んだ一人の女性がいます。

光子さん「長いこと気がかりだったからこれでね遺族としては満足しています」

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67年前、鉄血勤皇隊師範隊として前線に送り込まれた沖縄師範学校の生徒386人。うち226人が戦死。

光子さん「生きて帰ってきて親の悲しむのを見たら私が弟と交代すればよかったといつも思いました。私は死んでも女の子だから40生きているのが申し訳なくて」

こう語る光子さん自身も女子学徒隊として壮絶な看護体験をしながら生き延びた一人。しかし、一人息子の弟をなくした両親の落胆は大きく何度も生きて帰ったことを後悔したといいます。

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守昭さんの遺骨はもちろん遺品も何一つ残っていない中、毎年、6月23日に行われてきた慰霊祭が光子さんにとって唯一、弟の生きた証を感じる日だったといいます。

一方で、遺族や同窓生の高齢化。2005年慰霊祭は一度打ち切られましたが、3年前遺族の一人が慰霊祭を再開。

慰霊祭「平和とは何か、戦争とは何か、この場所で年に一度だけでも考える機会をこの塔が与えていると思います」

慰霊塔の名前に弟の生きた証をみてきた光子さん。今年最後の参拝になるかもしれないとある望みを抱いていました。

光子さん「守という字が消えたのかどうかその点がなくなっているのが気がかりで・・・」

光子さん焼香「よかったね、本当に人から見ればわずかな点だけど、遺族にすれば、ほんとにね〜(弟を)思い出す・・・」

光子さんの思いが通じ今年、仲田さんたちは慰霊塔の名前の修繕を行いました。

光子さん「お世話になりました」仲田さん「いい情報でした慰霊祭をやって親からもらった名前をどうするか間違っていても困るので」

67年遺骨すら帰らない弟、しかし、光子さんはこの場所で守昭さんと再会しているようでした。

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光子さん「昭ちゃんきれいになっているよ、皆さんのおかげで」