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真喜志光子さん「山里くんも一緒に壕を出て爆弾をうけて、私は負傷したけれど山里くんは逃げてどこかで生きているはずだからと。結局いくら待ってもこないから、やっぱりもう…」

真喜志光子さん(85歳)。二つ下の弟・守昭さんは戦場に行ったきり、67年経った今でも行方がわかっていません。

光子さん「機械人間というのか、何の感情もなくなって、ただ仕事仕事、傷病兵の看護だけ。どうせ自分たちも死ぬんだから」

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光子さん自身も女子学徒隊として動員され、野戦病院で不眠不休の看護活動にあたりました。激しい戦火をくぐり抜け、戦後やっとの思いで家族のもとに帰りましたが、守昭さんだけは帰ってきませんでした。

光子さん「生きて帰ってきて、親の悲しむのをみたら私が(弟と)交代すればよかったといつも思いました。あのころは男の子は神様みたいだった」

沖縄師範学校に通い、将来は教師になることを志していたという守昭さん。優秀な一人息子は両親の誇りだったといいます。

しかし、米軍の上陸目前の3月31日に沖縄師範学校の生徒386人はは鉄血勤皇隊として前線へ送りこまれます。そして226人が戦死。守昭さんの遺骨や遺品は見つかっておらず、最期を知る人もいません。

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摩文仁にある沖縄師範健児の塔。ここに守昭さんの名前があります。6月23日に行われてきた慰霊祭、光子さんにとってその日が唯一、弟が生きた証を感じる日だったといいます。一方で遺族や同窓生の高齢化。師範健児の塔では2005年を最後に慰霊祭は終了しました。光子さん自身もそれ以来、足が遠のいたといいます。

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光子さん「合同でやっていた時は行きましたよ。銘々参拝ということになったら行かない」

今、沖縄師範学校だけでなく、多くの慰霊祭が打ち切りを余儀なくされ、それに伴って慰霊碑や慰霊塔の管理の問題も年々深刻化しています。

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平和祈念財団・新垣会長「塔の管理自体を私たちにご一任くださいという覚書ということで」

昨日、糸満市にある陸軍病院の塔を巡ってある覚書が交わされました。遺族会は高齢化を理由に塔の全ての権利を県平和祈念財団へ一任したのです。

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遺族会・内間副会長「私も兄弟(遺族)ですが(慰霊祭も)もっと続けてという気持ちはあるでしょうだけど。ほったらかすこともできないし、あるところでけじめをつけようと」

覚書には清掃や管理を行なうと同時に、公共工事や県の判断に応じて塔の移転も盛り込まれています。

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県平和祈念財団・新垣会長「形としては私どもが将来みていきましょうと(Q:簡単には動かせない?)そうですね、それぞれ思いがありますから。その思いを十分に尊重しながら頑張っていこうと」

こうした覚書は今回で2件目。今後さらに増えるものとみられています。

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一方、光子さんの弟が刻銘されている師範健児の塔では…。慰霊祭がなくなったことを心苦しく思った遺族の一人が他の遺族からの要望も受けて、おととしからの慰霊祭を復活させました。

慰霊塔を守る会・仲田さん「慰霊祭をやらないというので心を痛めて。もう一度やりましょうといったけど、土地は、碑は誰のものだろうとしたときに、所有者があいまいな点があまりにも多い」

仲田さんは沖縄戦の真実を後世に伝えるため、慰霊塔の管理は行政を通してきちんと調査、保全すべきだと、4月に県議会へ陳情しました。

仲田さん「今後、慰霊塔をどう保全管理、あとは伝えていく道具として、県民が大事にみていくかという問題を今抱えていると思います」

県は慰霊塔や慰霊碑の調査を10年ぶりに開始、有志より作られたものが多く、県が管理するのは難しいとしながらも対応策を検討する方針です。

光子さんは今年、最後かもしれない慰霊祭にある望みを抱いていました。

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光子さん「守という字が消えたのかどうか、その点がなくなっているのが気がかりで。人から見たらなんで点くらいと思うはずだけど、私にしたら弟の生きた証拠だから」

慰霊塔には遺族の思いが詰まっていると考える仲田さん。今年、光子さんの思いが届いたかのように慰霊祭の資金の残りで名前の修復を行なっています。

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仲田さん「点がないという情報まで行き着いて、このおばあちゃんの気持ちが私には伝わってきます。なくなった方たちが親からもらった名前ちゃんとした形で残るといいなと思います」