2012年2月28日 18時40分

5・15 ー夢・現実そして未来へー 国場君れき殺事件をふり返る

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49年前の今日2月28日。このスタジオのすぐ近くの国道58号、当時の1号線で、上山中学1年生の国場秀夫君がアメリカ軍のトラックにひき殺されました。

青信号の、しかも横断歩道の上。何の落ち度もない中学生の命を奪った米兵は、密室で行われた軍事裁判で無罪に。沖縄が第一次裁判権を求める闘いのきっかけにもなったこの事件を振り返ります。

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中村さん「あの辺だと思います。われわれは学校帰りで、こう来てこうわたっていくもんですから、横断歩道。そこで倒れている国場君を見た」

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1963年2月28日夕方4時半。上山中学1年の国場君はいつものように下校し、樋川の家で待つ両親の元に帰るはずでした。ところが、青信号になり、みんなで横断歩道を渡っていたところ、猛スピードで突っ込んできた大型トラックにはねられたのです。

下校指導の先生や軍警察に囲まれた国場君。泣き叫ぶ生徒たちで現場は騒然としました。その中にいた国場君のお姉さんは、運ばれていく弟に駆け寄ることも許されず、内原つる子先生は彼女を抱きしめて立ち尽くしていました。

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内原さん「ただ泣いて『先生!』って抱きついてから、もうこの子を抱きしめて。そして私も、もうどうしようもない」

現場に駆けつけた内原先生の目に飛び込んできたのは、ガムをはき、ゴミを投げる米兵の姿でした。

内原さん「あれを見たら、やっぱりきょうだいとしてつらいですよね。自分の弟のところにつばを吐かれたり。だからもう私はあの子を抱きしめて」

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優等生で学級委員だった国場君。視力が弱かった父親に「車に気をつけてね」と声をかける、やさしい子だったといいます。

内原さん「あの姉さんを連れて行ったときの、お父さん、お母さんね。畳にうつぶせて。顔も上げ切らんで。泣いていらした、お父さんも」

翌日から新聞も連日この事件を取り上げました。教職員、政党など各団体が抗議の声をあげる中、上山の生徒会が自分たちで抗議集会を開きたいと立ち上がったのです。上山と那覇中学の生徒会が呼びかけた抗議集会には首里中、寄宮中の生徒、那覇市長も駆けつけました。

内原さん「もう、生徒会中心の抗議をやりたいといって。いや、生徒会というよりも学校としてやろうと言うことでしたけど。各中学の生徒会役員もみんなはせ参じて、そして自分たちも仲間に参加させて下さいって」

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当時、生徒会長だった又吉真一郎さんは署名活動を展開するなど積極的に動きました。

又吉さん「自分たちの友達がれき殺されたのをそのまま放っておくわけにはいかない。生徒会として立ち上がろうということで」

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那覇高校の校長も務めた翁長さん。当時、上山中学の3年生した。

翁長さん「当時は先生方も民主主義だとか平和だとか自治だとか、生徒たちに相当教えていたと思う。だから子どもたちは、それ(抗議集会や署名)をやるのは当たり前という気風があったと思います」

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しかし、5月1日に開かれた特別軍事裁判で、加害者のロナルド・ジャクソン2等兵は無罪に。誰もが耳を疑いました。その理由は「夕日がまぶしかったから」

当時の軍事裁判は、判事・検事役も全員が加害者と同じ部隊の人間で構成され、非公開で記録も出さないという一方的なもの。

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当時、先生方は何度も現場に足を運び、午後4時過ぎの太陽で信号が見えないなどありえないことを確認。また停止していたほかのドライバーも証人になると名乗り出ましたが、誰も法廷に入ることはできませんでした。国場君の証人と認められたのは、たった3人の中学生でした。

国場君のすぐ後ろを歩いていた3年生の松枝さん。信号が青だったこと、国場君は悪くないことを見たまま言おうと、先生と基地に入ったものの、法廷内は子どもだけにされ、4時間同じ質問ばかりされたといいます。

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松枝さん「初めてだし、怖いし。私たちの言葉でひとつでも違ったら大変だよねって。大人が来ないってこと自体知らなかった。いっぱいいるじゃないですか見ていた方。そこを通った方がいるのに、なぜ私たちだけしか法廷にいないの?」

無罪と聞いて落胆する上山中学の生徒たち。抗議集会や署名、そして軍事裁判への参加など、当時の中学生が背負ったものはあまりに重い課題でした。

松枝さん「国場君って思いだしているうちに、ああいうことがあったと思うと耐えられなくなる」

何も変えられない。そんな空しさを内原先生も抱えています。少女時代、戦場で死んだ母親にすがる赤ん坊を助けられなかった記憶。戦後も教え子を守りきれない悔しさ。それらが全部つながり、心が壊れそうになった時期もありました。

内原さん「母は(戦場で)私の顔を自分の横腹につけて(赤ん坊を見せないようにした)。でもあの声はね。今も本当に背中にくっついていますね。あの赤ちゃんの泣き声は」

憲法が適用されれば、この苦しみは終わると復帰運動に没頭しますが、軍隊は残り、目指す「祖国の春」は歪んでいったのです。

内原さん「『目指す行く手は祖国の春』と当時、本当に思いました。でも、そうならない。どうしてですかね、沖縄は」

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日本の法律にもアメリカの法律にも守られなかった暗黒の時代。那覇のど真ん中で起きた国場君事件は、不幸な時代に起きた過去の出来事なのか。この交差点を通る度、当事者は自問自答します。

中村さん「われわれの中には、40年たっても国場君の事故はいつまでも残るだろう。最近の事故にしても全く同じ」

中学生の連帯で抗議集会を開くなんて、当時の中学生は頼もしかったんですね。でも中学生だけを証人に呼ぶ裁判、ここまでいい加減なことをされた時代だったのかと。

それもこれも復帰すれば解決するという、県民の復帰にかけた思いがどんなものだったか。しかし、あれから40年。国場君の死に報いる安心して暮らせる社会が到来したとはいえない現状があります。

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