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1972年の復帰から、県議会で日米地位協定の改定を求める内容の意見書や決議は48回行われ、アメリカ軍関係と幅を広げると、事件・事故に関するものだけでも193回に上ります。

今月21日、いまだに続く、基地から派生する問題を直接アメリカに訴えようと、市民団体や県議会議員らがアメリカへ出発。その中に、1人の若者の姿がありました。

新垣翔士さん「自分は日米地位協定の改定に向けて、二度と自分の友達みたいに、被害を増やさないために伝えてきます」

新垣さんは、2011年1月に起きたアメリカ軍属による交通事故で友人を亡くしてから、日米地位協定の改定を求めて活動を続けています。

今回も一行に加わり、アメリカに向かい、地位協定の不平等さを訴えました。

新垣翔士さん「自分の友達以外にも、今まで過去にいろいろ事件・事故に巻き込まれて、みんな裁判もできず、人権も守られずに、泣き寝入りしてきた。ここで日米地位協定を改定しなければ、ずっと続く。この悲しみ、苦しみが。ずっと泣き寝入りで終わる。それが許せない」

訪米団はアメリカの国会議員や国務省などを回って、東村高江でのヘリパッド建設や辺野古移設の反対を訴え、帰国しました。

山内徳信議員「これだけの要請団をワシントンは受けて、さざ波が立っておりま。ある議員は、要請の時間全部聞くのも待ちかねて、私は海兵隊撤退論者であると」

池宮城弁護士「やはり例えば嘉手納の爆音訴訟のこととか、普天間が過密だとか、案外知られていない。我々はやはり直接訴えることが一番大切だと痛切に感じました」

訪米団がアメリカに直接訴えた手ごたえ感じる一方で、沖縄の若い世代には自分とのつながりが見えにくいのか、基地の問題やそれに取り組む市民運動について、ふわふわとした雰囲気しか伝わっていません。

19歳男性「(Q:地位協定のこととか、考えたことは?)いやー、全然ないですね。そんなの考えたことも…存在もあまりわからない」22歳男性「あんまり興味っていうか…そんなのなかったです」

こう話す2人は新垣さんの学校の同級生。新垣さんは現在、介護士を目指して専門学校に通っています。地位協定の問題について、必ずしもみんなが意識しているわけではありません。

新垣翔士さん「自分も他人事だと思って、(抗議運動を)きょうもやってるんだなみたいな感じでした」

そう話す新垣さんですが、今では、地位協定以外の問題にも関心を持ち、アメリカにまで訴えるほど動き続けています。どういう思いの変化があったのでしょうか。

新垣翔士さん「最初の頃は、基地があって当たり前で、それはまあ、普通に普段過ごしたんですけど、でもやっぱ今は事件に関わって、基地があることによって危険と隣合わせなんだなと。常日頃から感じるようになりました」

一方の同級生も、まったく興味がないというわけではありません。

「コザ暴動とか、そんなのがあったことはよく聞いてました。これはもう不平等さみたいな、そんなのをちょっと感じました」「興味?うーん…周りにこういうのがなかったから。知ってみたいなとは思います」

新垣翔士さん「俺も(アメリカから)帰ってきて、ずっと思っていた。継続しながらどうやって伝えていくべきか。自分の活動だって、うざがられたこともあると思うし…。難しいっすね」

雰囲気は伝わるが、自分との接点を見出せないという若者の距離感。そこを埋めるのも復帰40年を迎えた今の沖縄の課題のひとつです。