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沖縄戦で家族や友人の命を失い、打ちひしがれた人々の心を慰めようと、石川収容所に笑いで“ともし火を”ともす人物がこの頃現れました。

小那覇全人さん「(父は)天性のユーモリストじゃなかったかなと思いますね。人を楽しませる。自分も楽しんで人も楽しませる(人でしたね)」

世界的な喜劇役者、チャップリンにも例えらる小那覇舞天こと、小那覇全考さん。息子の小那覇全人さんが、父の舞天さんについて語ってもらいました。

1945年4月、アメリカ軍が沖縄本島に上陸。その3日後には石川収容所が設置されたと言います。収容所には、家族や親戚を失い、悲嘆にくれる人々も多くいる中、そこに現れたのが、小那覇舞天でした。

「命のお祝いをしよう!」そう言いながら、カンカラサンシンを手に弟子の照屋林助とともに現れ、歌いだす二人に、収容所の人々は怒りを込めて言葉を返します。

小那覇全人さん「はじめは怒られたらしいね“こんなに人が沢山死んだのに何がスージか”と言って、すると親父は“死んだ人は沢山いるんだけど、あんた方は生き残ったんだから、死んだ人の分までね、楽しくこれから幸せに暮らそうでないか”そういうことを言ってたよと(照屋)林助さんさから聞いた」

生き残った者には、亡くなった人の分も人生を楽しむ責任がある。沖縄諮詢会では、芸術課長に就任。笑いで沖縄の復興に活力を与えました。

小那覇全人さん「今はもう(父は)天国に行ってしまっているけど、林助さんと一緒にまた天国で“命のスージさびら”って言って何かやってるんじゃないかと思う」

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