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65年前、共に戦火を逃げ惑った母と娘は捕虜となり送られた収容所で生き別れてしまいました。

屋嘉比敏子さん「こういう格好の人を見ませんでしたかって言ったら『その方は昨日亡くなられたのに』(と聞いた)。私がもう少し早ければ、会っていたかもしれない。それを思うと、とっても残念で」

沖縄戦当時、旧真和志村に住んでいた敏子さん一家は、南部へと逃げます。激しい艦砲射撃などで、ケガを負いながら摩文仁に辿り着いた時5人いた家族は、敏子さんと母親だけになっていました。

敏子さん「母親は(重傷で)連れて歩くのにもう精一杯でした」

やがて、捕虜になった二人は、同じ宜野座の収容所に送られながら、別々のトラックに乗せられたために、生き別れてしまいます。

敏子さん「時間の食い違いで、重傷患者(母親)はあと、軽傷(私)は先に着いてるわけです。(母親の乗った)トラックの来るところで、私は座って今来るか今来るかと待っているんですけど、会いませんでしたね」

65年前のこのころ、敏子さんは母親を探して収容所中を回りましたが、とうとう見つけることはできませんでした。読谷村史によりますと、当時の宜野座には4万人もの難民がいたといいます。

戦後、敏子さんは、宜野座で大量の遺骨が見つかったニュースを耳にします。母親の遺骨があるかもしれないとの思いで駆けつけますが、皆同じ骨なので、母親なのかどうかはもうわかりませんでした。

敏子さん「取り返したい。(遺骨を)抱いて取ってね。自分のお墓に連れていきたい」