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65年前の今日、宜野座村に初等学校が誕生。しかし多くの人々が集まっていた村内では、子どもたち全員が通えたわけではありませんでした。

県から南部地域住民の疎開地に指定されていた宜野座村。4月以降は捕虜になった住民たちを集めた収容所も作られ、宜野座村は多くの戦争難民で混乱状態に陥りました。

1945年の敗戦当時、宜野座村の人口は最大で10万3000人。沖縄県の人口のおよそ32パーセントが宜野座村に集まっていました。田里友伸さんは、当時宜野座村にあった福山収容所に沖縄市から移動してきました。

田里友伸さん「もとは避難壕に入っていた。そこにいた人と一緒に捕虜にとられて、島袋に収容された。そこの収容所から福山に移動した」

65年前のこの日に宜野座村に誕生した中川初等学校。この時期、宜野座村では多くの収容所に学校がつくられましたが、田里さんは学校があったことすら知らなかったのです。

田里さん「あっちはほとんど学校あったかわからなかったぐらいです。食べるものもないんだから。イモなんか植えても生えないんです。枯地で」

子どもたちの教育のため作られた学校ですが、戦争難民であふれ、食べるのもやっとだった混乱のなか、学校は誰もが通える場所ではなかったのです。