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1968年に沖縄で初めての公選主席に選ばれ、1972年に沖縄の本土復帰を果たした屋良朝苗さん。屋良さんのそばには、常に大城盛三さんの姿がありました。

大城さんは、屋良さんの主席当選の翌12月、屋良主席の専属秘書に任命されました。琉球大学卒業後、アメリカの大学院で学んだ大城さんは、主に通訳としての仕事を任されたのです。

大城盛三さん「(相手は)ここでは軍ですよ。弁務官、民政官と弁務官、あるいは空軍司令官とか、マリーン隊の隊長とかね、それからハワイに行きましたよ」

ハワイで、ある司令官との会談をこう振り返ります。大城盛三さん「『(司令官が)沖縄小さい島よね、飛行機に乗ったらすぐ1秒か何かで見えなくなる小さい島よね』と言うわけさ。『(屋良さんは)そのとおりだ』と。沖縄県民は100万人いるよと。」「『沖縄県民の100万の人間はね、とにかく基地を早くなくしてくださいということはもう祈りに似た願いを持ってるんだよ』と屋良さんが言ったんだよ」

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『核抜き本土並み』、『基地のない平和な島』を願った祖国復帰運動。しかしその願いとは裏腹に、日米間の沖縄返還交渉は基地存続の方向で進められます。

そして1971年6月、アメリカ軍による沖縄の土地の継続使用が盛り込まれた『沖縄返還協定』の調印式が行われました。沖縄では『県民無視の返還協定調印に抗議する県民総決起大会』が開かれ、県民が怒りをぶつけました。5カ月後の11月、屋良さんと大城さんは、沖縄県民の思いを6000人の琉球政府職員が132ページにまとめた要請文書、『復帰措置に関する建議書』を携え上京します。

しかし『返還協定強行採決』羽田空港に降り立った屋良さんたちを待ち受けていたのは『強行採決』。総理大臣をはじめ、政府への要請行動を行う直前に、衆議院の特別委員会で沖縄返還協定が強行採決されたのです。

大城盛三さん「これを聞いたのは飛行場ですよ、あの羽田飛行場。で、これ僕持ってますから、建議書。そしたらあのときは特にたくさん来て、僕らはマスコミから聞いたんですよ、強行採決されたのは」「で、びっくりしたんだ屋良さんも。屋良さんムッとなってね」「で、そのままホテル行って、、もう記者会見も何もやらない。『きょうはやりません』と言ってね」

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屋良さんはこのころ、強行採決のうわさを耳にしながらも、この日のおよそ1週間後には沖縄で、返還協定特別委員会の公聴会が予定されていると聞かされていました。屋良さんはその後、気を落ち着かせて会見を開き、こう述べています。

屋良さん「沖縄の命運を決定する国会でありながら沖縄の最後の訴えも聞かず強硬手段をとったのは言語道断。党利党略に走ったもので、不満を表明する。」

そして翌日、佐藤総理大臣をはじめ、各大臣や議員らを訪れ、県民の思いが詰まった建議書を手渡しました。その建議書の前文には、こう綴られています。

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「この重大な時期にあたり、私は復帰の主人公たる沖縄100万県民を代表し、県民の心底から志向する復帰の実現を期しての県民の訴えをいたします。」「基地あるがゆえに起こるさまざまな被害・公害や、取り返しのつかない多くの悲劇等を経験している県民は、基地のない平和な島としての復帰を強く望んでおります。」「核抜き本土並みについて、県民の大半が疑惑と不安を抱いています。」「毒ガスでさえ、撤去されると公表されてから、2年以上も要しております。」「さらに、核基地が撤去されたとしても、返還後も沖縄における米軍基地の規模、機能、密度は、本土とはとうてい比較にならないということです」

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あれから38年、沖縄には依然として全国のアメリカ軍専用施設の74パーセントが横たわっています。

大城盛三さん「(Q.本土復帰は果たされているような感じがしますか)いえ、私はそう思っていません」「屋良さんも、沖縄の基地の問題が解決しなければ復帰は完成してませんという言葉を使ってますから」

そして、普天間の返還問題については、県民に「あきらめずに基地撤去を訴え続けて」と提言します。

大城盛三さん「裏切られたとかね、いろいろ言ってますよ、私はそうでないと思いますよ、いま、まだ過程にあるんだからね、まだ終わってないんですからね」「鳩山さんがね、外交権持っているのは国ですから、一般国民にはないですから、あの人が一生懸命働けるようなことをすればいいと私は思うんですよ。」「やる気を起こさせるということですよ、もっと」

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