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沖縄からブラジルへ第一回の移民がわたってから今年で100周年。ステーションQでは3回にわたり、その歴史と人々の証言、「移民社会ブラジル」の今をつたえます。(フリップ)こちらがブラジル、南半球ですからいまは冬。日本からは飛行機でおよそ24時間。国土はひろく、世界で5番目の広さです。新天地・ブラジルにわたった日本人は現在150万人の日系社会を作るに至り、そのうち15万人が沖縄県系といわれています。

一回目の今夜は、戦前・そして戦後に海を渡った、二人の「一世」へのインタビューです。「夢の大地」と人々が呼んだブラジルで、彼らはどのように歩んできたのか。その足跡をたどります。

ブラジル・サンパウロにくらす金城政喜さんは午前中、友人とゲートボール、そして食事をするのが日課です。金城さんは南風原町出身。戦前、ブラジルに渡った移民一世です。

金城さん「やっぱり…“最高の国”に着いたと喜んだわけですよね。それで当時は親戚もむかえに見えたもんで。Qやはり晴れやかな気分?Aそうそう。Q今でも思い出せますか?A思い出せますよ。いまでも思い出す」

金城さん、そして移民した人々が「最高の国」「夢の大地」と呼んだ国、ブラジル。彼らの目に初めて映った異国が、ここサントスの港町でした。大西洋には今日も多くの船が行き来しています。100年前、この港に降り立った移民の歴史が始まりました。

移民した人々は列車に乗り、一路サンパウロへ運ばれます。そして収容所で数日過ごした後、国内各地へと向かったのでした。新天地ブラジルでひとはたあげ、故郷に錦をかざる。その一心で胸は希望にふくらむばかりでした。しかし彼らを待ち受けていたのはコーヒーや綿花など、農地での慣れない重労働、粗末な住宅での暮らし、なじめない習慣や食事など、さまざまな苦難の数々でした。夢破れ途中で農園を逃げ出した人もおおくありました。

それでも多くの人があきらめずに働き続けました。金城さんは、県出身でブラジル最初の歯科医、金城山戸の親戚にあたります。一回目の移民で成功した知人も多かったため農作業では他の人ほど苦労はしませんでしたが、農業から運送業、カフェ経営や小売りなど、さまざまな仕事を経験しました。

金城さん「成功者がいなかったんですよ。うちのおじさんは成功者に入るかどうかは知らんけど、残りの人は誰も。お金持って日本に帰ってきた人はいないんです」

バウル市慰霊法要1945年

金城さんら一世には忘れられない出来事があります。戦争がおわってからのことでした。移民社会を混乱させたのが「日本は負けていない」と主張する「勝ち組」と「負け組」の混乱でした。金城さんの暮らすバウル市でも、その流れは広がり、地域の催しに参加できないなどの嫌がらせもあったといいます。

金城さん「君らは入ってはいかん、何故ですか?君らは敗戦論者だ。なんで敗戦論者?僕の後ろに金城山戸がいたわけだからそういったんでしょう」

当時しかれた情報統制で新聞などはなく、ごくわずかな人のみがラジオを聴くだけで、敗戦の情報も正しく伝わらなかったためにおきた勝ち組・負け組の悲劇。その後、23人の死者を出すなど日系社会全体を大混乱させました。

金城さん「負けたというのは分かっていながら、決して日本は負けないという気持ちがあったんじゃないかと思います。敗戦とか勝ち組とか。大きい店とか成功者はみんな敗戦組だったんです。そんなバカなことがあっていいんですか。なんで成功してる人が敗戦(負け組)か。いま考えるとあれは変だったと思う」

おなじ日本人でありながら社会を二分した混乱。いまでも一世の胸に深い傷をのこす、心の戦争がありました。

その戦争が終わり、日本には再度移民ブームが訪れました。サンパウロに暮らす与儀米子さんは、復帰前の沖縄からブラジルに移民した「戦後一世」です。

与儀さん「私たちの沖縄はいくら働いても働いても、伸びどころのない国。狭い国だったけどブラジルはもう、いくらでも土地が大きいから希望が叶えられるって思ったんです。でもそれでも、そんなにあれじゃなかった。自分の思っているような国じゃなかったんです」

沖縄での貧しい暮らしを捨て、家族でブラジルに渡った与儀さん。当時、多くの若者が南米移住のために農業研修を受けた開発青年協会での実習を経て、ブラジルに渡ったのは1961年、17歳のころでした。

与儀さん「Q夢の海外、だったんですね。Aそうですね、みんなじゃんじゃん行きましたし、どうせ沖縄にいても皆は高校に進学するし、そんな進学する(余裕はなかったし)あの、貧しかったから。勉強は嫌いな方じゃなかったけど」

日本からの移民も次第に少なくなってきた時期のこと。ブラジルでは工場に勤めたり、結婚したあとは農業を営んだりしましたが、暮らしは楽ではありませんでした。移り住んだ国が「夢の大地」ではなかったことに与儀さんは落胆します。

与儀さん「仕事に追われて、故郷を思う暇はなかったです。そしたら88年にブラジルに“出稼ぎブーム”がきたので」

いまやブラジルでは「デカセギ」という単語も定着するほどの社会現象となった日系人の日本への出稼ぎ。与儀さん家族も日本で数年間、働きに出た結果、ブラジルでの20年間を上回る収入を得ることになりました。

与儀さん「私たち家族5人はたらくと月に100万も貯まる。これなんだろう、日本の国はって。なんでこんな素晴らしい国になると思ってたらブラジルなんかにね、友達や親戚を捨てて行くんじゃなかった。あの頃はみんな、ブラジルブラジルって政府がすすめて行ったから、私たち騙されたんだなって(笑)。こんなに日本がいい処になるんだったら来るんじゃなかったって。思いましたよ」

県系人や地元からの参加者など、多くの人がこの夏、移民100周年のブラジルを訪れました。さまざまな思いをもって記念式典に参加する人々のなかに、与儀さんや金城さんの姿もありました。

与儀さん「最初は国に騙されたって感じがしたんですよ。ブラジルはいいところだと思って来たのに、誰もブラジルに来て、ああここはいい所だなって感じた人は誰もいないと思います。全部全部、苦労して苦労して、泣いて泣いて、いくらあがいても日本に帰ろうにもパサージはないし。そして慣れていくうちに住めば都、で」

金城さん「そうですね、…なんというか。感想ですか?さあ。最高、という感想です。でも僕に言わせれば、あっという間にきたという感じがします。毎日毎日に追われてね」

ブラジルにわたった一世の皆さんが、大変なご苦労をなさったのはよく聞く話でしたが、移民社会には他にも数々の問題があったんですね。一世の方々にうかがった話から、100年という長い移民の年月の一端を垣間見ることができますね。

ブラジルリポート、あすは100周年記念式典の模様とブラジル教育界で活躍する県系二世を紹介します。