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63年前の6月23日、沖縄守備隊の司令官が自決して組織的な戦闘が終わったとされていますが、実際はそのあとも多くの犠牲者が出て「終わりなき戦闘」に突入したことがわかっています。

牛島司令官の二つの命令が住民の犠牲を大きくしたのでは、という視点で平和教育を実践する先生がいます。

牛島貞光さん「私の名前は牛島貞光といいます。この人は知ってますか?」

東京の小学校の先生・牛島貞光さんは、牛島司令官の初孫にあたります。

冒頭、32軍が沖縄に来た目的を聞くと「住民を護るため」という意見が多く出ました。

牛島さん「50メートルや100メートルは短距離だよね。持久走は?できるだけ長く?持久戦っていうのは、短くではなくできるだけ長く闘う。これが大本営の方針でした」

牛島さん「(5月22日に)首里の司令部号の中で作戦会議が開かれました。1案はこのまま首里で戦う。2案目は南部に下がって闘う。もし自分だったらどちらの作戦をとりますか?」

先生はすでに日本軍は9万人から3万人まで減ってしまったこと、南部には多くの住民がいることなどの情報を示します。

児童「南部に撤退すると少しの間でも劣勢を立て直して持久戦ができる」「首里でまとも戦ったら負けるから、南部で敵をおびき寄せて」

児童「南部の方が人が多くいるから、首里で戦って犠牲者を減らした方がいい」「首里には軍が堀った洞窟陣地があるから、持久戦だったらそっちの方がいい」

実際の命令は「南部撤退」でした。毎日1000人が死ぬ壮絶な状況を生んだこの命令に、牛島先生はこだわります。

牛島さん「住民もここにいたら日本軍が突然来たわけです。そして作戦の邪魔だからと言って壕を追い出されたりしたわけです」

そして自決直前に出した最後の命令についても問いかけます。

牛島さん「『最後まで敢闘し悠久の大義にいくべし』。有名な、君たちもよく知っている、最後の一人まで戦いなさいという命令が出た。沖縄戦は、戦争をやめる人が死んでしまったので、終われなくなってしまった」

そして自決した23日以降も、毎日、どれだけ犠牲者が出続けたのかを数字で示しました。

薩摩隼人の豪胆さと温厚な人柄で知られる牛島満は、士官学校の校長も長く勤め、軍人より教育者タイプといわれます。牛島先生は同じく軍人だった二男の息子にあたります。

牛島さん「(祖父に会えたら)何で南部撤退にしたの?って、それを一番聞きたいですね。その時どう思っていて、どういう判断でそうしたのか」

牛島さんが初めて沖縄を訪れたのは14年前。簡単にはいけない場所でした。

牛島さん「自分の祖父が司令官であるっていうことから、沖縄に行ったらなんて言われるかっていうことがすごく不安だった。旧平和資料館にはいると、最初にオブジェがありますよね。その横に『最後まで敢闘し悠久の大義に生くべし』という牛島司令官の最後の命令があって、そのことによって県民の犠牲は非常に多くなったという趣旨の説明があって。僕自身ショックを受けたんです」

それから猛然と沖縄に通い、資料を読み、一大決心をして「沖縄戦の特別授業」を始めます。東京の6年生の反応は様々です。

感想文「私は自殺をするのは戦争から逃げることと一緒だと思う。残された日本軍がすごくかわいそう」「きっと本土側の人たちは、住民だけではなく送り込まれた兵隊も、沖縄すべてを捨てたのだと思う」「もし自分が牛島満という一人の人間の立場にいたら、頭がおかしくなっちゃうんじゃないかと思う」

牛島さん「一番大切なのは、東京や他府県の子どもたちが沖縄戦の姿を知ることなんですね。別に僕が沖縄で授業をやる必要はないわけですよ、沖縄の先生がやれば一番いい。だけど、やっぱり東京だけでやってた場合に、沖縄でも通用しなかったらそれは違うかな」

そして6年前から毎年沖縄でも授業をするようになった牛島先生。しかし、今回は滞在中にニュースが飛び込んできました。

牛島満司令官直筆の命令文書がアメリカで見つかったのです。沖縄の高校生たちで組織する「千早隊」に対し、「遊撃戦」=ゲリラ戦を命ずるもので、解散命令が出た6月18日、同じ日に出されていたのです。

文書を見つけた大田昌秀さんは千早隊の生き残りで、解散命令の後、隊長に呼ばれたことを鮮明に覚えています。

大田昌秀さん「解散となり、もう自由になると思っていた。そしたら益永大尉がわれわれ千早隊をあつめた。地下工作をやれということを言ったわけです。地下工作という意味がわらなかった」

結局、大田さんは10月23日まで戦場をさまよい、戻ってみれば、同級生150人のうち、生き残ったのはわずか35人でした。

大田さん「だから悔しいわけ。そこまで生きているのに。あの時に(友人が遊撃戦に)行かなければ、確かに生き残ったんじゃないかと思えて。その中に非常に惜しい人物がいたわけね、とても優秀で生き残っていたらどんないいことをしたかなと、今でもいつもそのことばかり考えているけどね」

牛島さん「たぶんこれは直筆じゃないかと思っています。終わりなき沖縄戦を作り出した命令書だと思いますね。(Q:どんな気持ちで書いたと思われますか?)使命とはいえ、まだ高校生にあたる人たちを継続して戦闘をさせようと書いているわけで、それはかなりつらい部分もあっただろうなと思いますね」

こんな命令を出した牛島司令官は、鬼のような人間だったのか。残酷な人だけが戦争をやるのだろうか。後半の授業では、特に司令官の人物像を説明します。

家ではよく子どもとよく遊ぶ父親で、沖縄でもいつも金平糖と乾パンをポケットに入れ、子どもにあげていた。優しいお爺さんだったという証言も紹介します。

女子児童「満さんさあ、自決?って、あれって逃げたの?」

牛島さん「逃げたんじゃなくて、天皇と国民に対して申し訳ないっていう気持ちで」

女子児童「何で首里で終わらせなかった?」

牛島さん「そこが疑問だよね」

女子児童「孫としてみればいいの?悪いの?」

牛島さん「それはだから単純には言えないから、みんなに聞いてる。どう思う?って」

女子児童「人柄がよくて、やったことが悪いから、優しいんだと思う」「戦争も人を変えるんだね・・・」

沖縄の人にも優しかった。そんな優しい人が、なぜ残酷な状況を生むような命令をしたのか。そこに戦争の正体があるような気がします。

二度と被害者にならないためにどうしたらいいかを考える人は多いと思いますが、二度と加害者にならないためにどうしたらいいかという問いは難しく、でもそれこそが戦争を止める直接の力になるのではないかそういう視点を、牛島先生の授業から学んだ気がします。